あの街、あの散歩みち(第1回)


鎌倉亀ヶ谷坂の散策と薬王寺
現在JR鎌倉駅と北鎌倉駅をつなぐ道は、通称「鎌倉街道」の県道21号線「横浜鎌倉線」の他には、ハイキング道を除いては亀ヶ谷坂を経由する道があるだけだと思います。亀ヶ谷坂は、中古から伝えられてきた鎌倉七口(切通し)*のうちの一つで、巨福呂坂(こぶくろざか)切通し、化粧坂(けわいざか)切通しとともに、古くから鎌倉の市街地と北西方面をつなぐ要路のうちの一つとされてきたようです。
   
 
*鎌倉七口(切通し): 亀ヶ谷坂、巨福呂坂、化粧坂、大仏、極楽寺坂、名越、朝比(夷)奈
私は、特にこれといった具体的な理由を上手く説明できないのですが、鎌倉の散策の中ではこの亀ヶ谷坂とその周辺をのんびりと歩くことが好きで、過去にも何回か散策の機会がありましたが、特に北鎌倉方面(山ノ内)から歩き始めて、鎌倉市街方面(扇ヶ谷)に向けて歩く方が、亀ヶ谷坂散策後のオプションが沢山あって、楽しみの幅が大きいと思っています。JR北鎌倉駅からは、駅前を通る県道21号を、建長寺方面(鎌倉市街方面)に途中JR横須賀線の踏切を渡って10分程度歩くと、右側に足利氏ゆかりの長寿寺に登る階段が見えてきます(長寿寺は、室町時代の初代鎌倉公方である足利基氏が、父尊氏を弔って建立したとされる寺)。亀ヶ谷坂は、県道21号線をこの長寿寺とその先の「茶屋かど」との間の道を右に曲がったところから始まります。緩い登りを200m程歩くと坂の頂部に着きますが、ここから扇ヶ谷方面へは急な下り坂が始まります(右の写真は、頂部付近から山ノ内方向を写したもの)。亀ヶ谷坂は、亀がひっくり返ったとか、亀が急な坂道の登りを途中で諦めて帰ってきたとかいう謂れがあって、その昔は「亀返坂」とも呼ばれていたらしいのですが、現在の道は、その後の掘削とか道筋変更とかで往時とは全く同じ道ではないんでしょうが、亀が云々とはこの下り坂を言うんだなということは、すぐに察することができます。頂部付近では、まさに切通しと呼ぶに相応しいような、道の両側の壁が切り立って岩肌が露出した状態がしばらく続きますが、途中、道の両側に欝蒼と樹木の生い茂った中を歩くところもあるので、このあたりでは、樹木が切り立った壁を隠しているために、むしろ山間部にある田舎の山道を歩いているような感じがします。この急坂を過ぎると緩やかな下り坂が続きますが、このあたりから道の両側には普通の民家が見られてきます。亀ヶ谷坂は、坂の頂部を中心とした一定区間は車の通行が禁止されているために、その間は車を気にせずにゆっくりと散策を楽しむことができます。また、そのせいか、道が住宅街に入ってからも車の通行も周囲の喧騒も少ないため、いつも何かとても長閑な気分にさせてもらいます。
この亀ヶ谷坂からの道が突き当たりの直角な道にぶつかって終わる少し手前の右側奥には薬王寺(右の写真)があります。薬王寺は日蓮宗の寺で、鎌倉の観光名所としてそれほど大きく紹介されているようなお寺ではありませんが、亀ヶ谷坂からの道に面した入口からお寺の門までの約30mの参道には桜並木があり、寺内には織田信長、豊臣秀吉に仕えた蒲生氏郷の孫であり、徳川家康の娘である振姫を母とした松山藩主蒲生忠知(ただちか)の奥方と息女の墓、また徳川忠長の供養塔(右下の写真)があります。このように薬王寺は、徳川氏と縁がつながっているために、寺紋として徳川家の紋である三つ葉葵の使用が認められていたという話も聞きました。尚、この薬王寺は、大晦日に除夜の鐘を撞けるお寺としても有名なところで、「厄除け」や「病気平癒」にご利益があるとも言われています(寺名の由来も、それに関係しているということを聞いたことがあります)。また、天然石に開眼供養が施された念珠ブレスレットや念珠ストラップのお守りが有名なお寺です。
この薬王寺に供養塔がある徳川忠長は、徳川二代将軍秀忠の三男で、家康には孫に当たります。同腹の兄には三代将軍となった家光(幼名竹千代)がいますが、忠長は幼少時(幼名国松、国千代)より利発、聡明で、また容姿も優れていたらしく、両親(秀忠、お阿与の方(お江、崇源院))からは、病気がちで愚鈍なところがあったらしい家光を差し置いて、傍目にも分かるくらい溺愛されたとのことです。このような状況で、世継も兄の家光ではなく忠長にされてしまうのではないかと心配した家光の乳母春日局が、家康に直訴して家光を世継にするように頼み込んだという話や、家康が秀忠夫妻に対し、幕府の土台が築き上げられた以上は、長幼の秩序を保つことが家系の維持や幕府の維持のために肝要であることを懇々と説いたという話や、また家康同席の内輪の席で、家康が竹千代だけを上座に座らせて、国松が寄って来たときに、これを退けて臣下の礼を取るよう厳しく言い渡したとかいう挿話も伝えられています。
忠長はその後、駿河、甲斐を与えられ、駿府(静岡市)に本拠を移しますが(通称「駿河大納言」)、おそらく幼少時からの体験で自分に恃むところが強かったと思われる性格が原因で、江戸に対して対抗心も露わな態度を取ったりするだけでなく、駿府では自ら辻斬りをしたり、家臣を理由なく手打ちにしたり、また殺生が禁止されている浅間神社で猿狩りを行うなど、奇行や凶暴な行為が目立つようになり、その結果父秀忠からは出仕禁止の謹慎処分を受け、父の死後は次代将軍となった兄家光より領地没収の上、高崎で切腹を命じられ、1634年に28歳の若さでその生涯を閉じました。彼の切腹は、上に書いたようなことが原因として挙げられているようですが、駿府での彼の粗暴な行為は、将軍家による切腹の命を正当化するために、粗暴な為政者にありがちな行為として後に作り上げられたものであるとの説もあるようです。彼の改易(領地没収)は、徳川幕府が進めていた大名廃絶政策の一環として行われたものであり、幕府としては、彼が将軍家に対し取って来た不遜な態度が幕政強化をはかる上での障害になると判断したことが、その大きな原因であったと考えるのが妥当なところかと思われます。ただ、これが単なる改易、蟄居にとどまらず、現将軍の実弟であるにも拘らず、切腹という最も重い処置となったのは、将軍家の一族に対しても厳しい処分を行っているぞという他大名への見せしめとともに、忠長の幼少時からの兄家光との確執や、家光にあったと言われている、ある面で執念深いエキセントリックな性格も原因になっているとも考えられます。
薬王寺にある忠長の供養塔は、彼の死後、彼の死を嘆き悲しんだ彼の妻(織田信長の次男信雄の孫である松孝院)の懇願により建てられたものです。権力を持った身分の高い家に生まれ、幼少時から両親初め周りの人たちからちやほやされて、何不自由なく気の向くままに成長してきた、生まれながらにして権力志向とプライドだけが高いお坊ちゃんが、現実世界での自分の立場を誤解したままで生涯を終わってしまったという感じがします。どうも、過去の歴史から見ても、洋の東西を問わず権力者の家系には、往々にして現実が見えずに自分を勘違いして、極端な結末を迎えてしまう人物が出てしまうようです。
それにしても、この時代の著名な人物は、権力者間同士で政略的な婚姻が繰り返されてきたことから、歴史上有名な人たちと血のつながりがあるものですね。忠長の場合は(家光もそうですが)、父方は徳川ということで家康の孫であることは自明ですが、母方をたどると、祖父は織田信長に滅ぼされた北近江の小谷城主浅井長政、祖母はその織田信長の妹のお市の方ということで、彼にとっては織田信長は大伯父に当たります。忠長は、この大伯父の信長に風貌が似ていたなんてことも何かで読んだこともあります。また、信長に滅ぼされた浅井長政にとっては、織田信長との戦いに敗れて、幼少の女子を残して一族が滅亡した自分の死後に生まれた自分の実の孫が、天下の将軍になるなんてことは生前想像すらできなかったでしょうね。また、祖父の家康と父の秀忠が大坂夏の陣で滅ぼした豊臣秀頼とは、母方の従兄弟同士です(母の崇源院の実姉が秀頼の母である淀殿)。更に、血縁ではありませんが、忠長の兄家光の乳母で、実の親以上に家光のことを心配し続けた女性が、信長を本能寺に襲った明智光秀の家老である斎藤利三の娘のお福(春日局)であったことを思い合わせると、様々な興味深い相関図が描けそうです。
この薬王寺から、亀ヶ谷坂から来た道に戻って進行方向(右手方面)に少し歩くと、この道は直角に左右にぶつかって行き止まりになりますが、この右手の角には源頼朝と北条政子夫妻の長女である大姫の守り本尊であった地蔵を祀ったとされる岩船地蔵(左の写真)があります。父頼朝の天下取りの過程での犠牲者とも言われるこの大姫に関しては、私自身にも思うところがありますので、別の機会に触れてみたいと考えています。
この突き当たりの道を左に取れば、足利氏ゆかりの浄光明寺(足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻す決断をする直前に謹慎していたと伝えられる寺)や、そのまま小町通りや鶴岡八幡宮方面の鎌倉市内に行けますし、また道を右に取り、JR横須賀線のガードをくぐってそのまま真っすぐ行けば海蔵寺に、途中で左折すれば化粧坂を経て源氏山公園や銭洗弁天方面に行けますし、またガードをくぐってすぐに左折して横須賀線に沿って並行した道を歩けば、途中に阿仏尼の墓、英勝寺、寿福寺などを経て、そのままJR鎌倉駅の西口や、またその途中で左に折れれば、小町通りなど鎌倉の中心部に出ることができるなど、北鎌倉方面からの亀ヶ谷坂散策後にはいろいろな行動のオプションがあると思います。

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