あの街、あの散歩道(第9回)
松姫、逃避行と安寧な日々
八王子市は東京都の西部に位置し、古くから甲州街道に沿った交通の要衝で、甲州(山梨県)側からの東京都の玄関口としての役割を果たしてきた街です。東京都心から八王子市中心部までの距離は約40kmと十分都心部への通勤圏内にありますが、街が発展してきた歴史的な背景から、甲州街道に沿った中心部の街並みは、東京の通勤圏内の近郊の都市で見られるものというよりはむしろ、良きにつけ悪しきにつけ独立した地方の中都市という趣があります。今は撤退してなくなっていますが、昭和期にはこの甲州街道に沿った中心部には大手デパートの伊勢丹や大丸が軒を並べていて、繁華街の中心となっていた時期もありました。現在は、車社会の発展とともに商業地域は郊外に向けて拡散しているようで、周辺には大型駐車場を持った大型ショッピングセンターがいくつか存在しており、買い物をする人たちの流れもその方向に向かっているような感があります。
八王子には、このような街の立地条件から、中世より外敵に対する要衝となる城がいくつか築かれており(片倉城、滝山城など)、戦国時代末期には、小田北条氏の支城で、最後は豊臣秀吉軍によって滅ぼされる運命となった八王子城が築かれました(八王子城攻防に実際に参加したのは、上杉景勝、前田利家、真田昌幸軍)。また、交通の要衝でもあったことから、人々の行き来も頻繁にあり、甲州方面から関東への人の流入をチェックする目的で戦国時代に小仏の関が設けられたり、また徳川家康の江戸入府以降には、主に甲州武田氏の遺臣からなる八王子千人同心が設けられたりして、主に国境の警備という仕事に従事させていました。


現在、JR八王子駅からは徒歩で約15〜20分、また西八王子駅からは徒歩で約10〜15分の場所のJR中央線の南側に信松院という曹洞宗のお寺があります(八王子市台町、右の写真)が、このお寺は武田信玄の娘の松姫(信松尼)が落飾後に余生を送った草庵があった場所に創建されたと言われています。松姫は、往時からの評判や生き様が人々に共感を与えたと言われていることから、今も八王子の銘菓やJR八王子駅の駅弁にその名前が付けられるほど、八王子では現在でも広くその名前が浸透している人物です(現在、駅弁の販売は行われていない)。八王子には、この信松院の他にも松姫に縁のある場所がいくつかありますので、松姫について紹介かたがた、その足跡を辿って行きたいと思います。

松姫は、甲斐源氏の正統であり、戦国時代における甲州の覇者であった武田信玄の娘として、当時美人で有名であったらしい側室の油川氏を母として1561年頃に生まれており、同腹の兄には、後に高遠城主となった仁科五郎盛信、葛山氏を継いだ信貞、また同腹の妹には上杉景勝の正妻となった菊姫がいます。松姫は、7歳の頃に、当時日の出の勢いで「天下布武」を旗印に勢力の伸長をはかっていた織田信長の、甲州武田氏との友好関係の維持という目的のために、信長の嫡子の信忠との婚約が成立し、その後は武田家内で「新館御料人」(信忠の婚約者という意味)と呼ばれ、甲府で婚約時代の数年間を過ごしています。ところが、1572年に武田信玄が徳川家康を撃破した三方ヶ原の戦いで、織田信長が同盟軍であった徳川氏に援軍を送り、その結果織田氏と武田氏が敵対関係になったことから、この婚約は必然的に解消されてしまいました。翌1573年に父信玄が都に武田氏の旗を立てたいとする志半ばにして没すると、彼女は実兄の仁科盛信のいる高遠城に移り、ここで1582年まで暮らしていたようです。

武田氏は、信玄没後は四男の勝頼(松姫の異母兄)を当主に立て勢力の伸長をはかりますが、その武田軍は、1575年に織田・徳川連合軍の鉄砲を主力とした長篠の戦いでの近代的な空中戦の前に、武田氏自慢の騎馬隊が壊滅したことにより回復が困難なほどの敗北を喫してしまいます。その後、勢力の衰えた武田氏は、内部諸侯の裏切りや、かつて松姫の婚約者であった織田信忠を総大将とする織田軍の攻撃によって1582年に滅亡してしまいます(同年2-3月に、当主勝頼は天目山で一族もろとも自刃、兄の仁科盛信も高遠城を枕に討死、また葛山信貞も甲州善光寺において自刃)が、その際松姫は、勝頼と盛信の幼少の娘たちを連れて、この災禍を避けるために、当時武田氏と同盟関係にあった小田原北条氏が支配する武蔵方面への逃避行を行いました。松姫一行は、武蔵方面に逃れた後、最初は現在八王子市上恩方の金照庵、次に下恩方の心源院に身を寄せたという記録が残っているようです。心源院は下恩方の地に現存しています(左の写真)が、上恩方の金照庵は現存しておらず、現在の恩方第二小学校の校庭の一部が金照庵があったとされる場所と言われています。近くの「関場」バス停付近には、地名から類推できるように、この辺りに関所があったことを記す碑とともに、松姫がこの地に立ち寄ったことを物語る碑が残っています(右の写真)。この松姫の逃避行のルートについては諸説あるようですが、現在の塩山(甲州市)を起点として、大菩薩峠、鶴峠(近くには、かなりの難所で有名な松姫峠という地名も残っている)、三頭山、浅間尾根、桧原本宿、市藤山、上恩方というルートが、確証はありませんが有力なんだそうです。いずれにしても、現在の甲州街道やJR中央線の北側の道なき山道をひたすら東に向かって進んで行ったことだけは間違いないようです。正確な逃避ルートの究明は今となっては難しいんでしょうけど、このルートを追及してみるのも面白そうですね。松姫は、下恩方の心源院で出家した後、1590年頃に御所水(現在の八王子市富士森公園付近)に移り、後に信松院となるそこの草庵で近くの子供たちに読み書きを教えたり、養蚕や織物を作ったりして静かに余生を過ごしたということです。その間、旧武田氏に仕えていた徳川氏八王子代官の大久保長安の手厚い保護を受け、また武田氏の旧臣を中心に組織された八王子千人同心の心の拠りどころになったという、戦乱に明け暮れた世から平穏な世の中に移っていく過程の、江戸時代初期の時代の心温まるエピソードが伝わっています。


色々な読み物を見ると、松姫は幼少の時に婚約した織田信忠とは文通を通して精神的な心のつながりができ、そのため彼女が武田氏滅亡後に下恩方の心源院に身を寄せていた時に信忠から迎えの使者を受け、彼に会いに行こうとしている時に例の本能寺の変(1582年6月)が起こって信忠も父信長とともに死んでしまい、彼に会えなくなってしまったために、これを契機に出家したというくだりが良く見られます。どうも、これは好意的に伝えられてきた松姫の性格や佇まいなどから、彼女には、出生、平和な少女時代、周囲の激動を感じる思春期、実家滅亡による逃避行、出家、静かな余生という、ただ時代の激動に流されて行ったというだけという受動的な人生を送ったのではなく、彼女にもこのような淡い恋心を抱くような経験を持ち、またまさに符節を合わせたような劇的なタイミングでこんな別離のエピソードがあったのだという、おそらく松姫に好意的な後世の人たちが、松姫の生涯に花を添えるために加えた創作ではないかと思います。松姫の側からは、幼少期に信忠と婚約した当時は、その父信長は飛ぶ鳥を落とす日の出の勢いでその勢力を拡大中であり、その一方では武田信玄の力を恐れて武田氏には様々な贈り物を贈ったり、婚姻政策を取ったりして(信長は妹の娘を養女にして、信玄の後継者となった勝頼の正妻に送ったが、彼女が嫡子の信勝出産後間もなくして1567年に死亡したため、次に信忠と松姫の婚約が進められた)、非常に気を遣いながら武田氏のご機嫌を取るという、武田氏の側から見たら一種の優越感にひたれるような印象であり、また松姫自身もおそらくどこかから信長ははつらつとした印象の美男子だということを聞いていたり、実際に目にしたであろうその姪である勝頼の正妻も評判の美人であったとされることから、信忠に対しても好ましい想像をしていたはずであり、信忠と自分が夫婦で一緒に並んでいる姿をダブらせて、少女ながらに憧れに似た気持ちを抱いたであろうと想像することに無理はないと思います。

一方、信忠の立場からすれば、彼は信長の御曹司として何不自由ない生活を送っていたでしょうし、女性に関しても不自由はなかったはずです。彼が死ぬまで正妻を持っていなかったとされることが、心源院に隠棲中の以前婚約者であった松姫に「復縁」を求めた迎えの使いを送ったというストーリーの根拠になっているのではないかと思いますが、上方育ちの御曹司が10年も前に破談となってしまった、会ったこともない、しかも自分が総大将として完膚なきまでに滅ぼした武田氏の娘を引取るためにわざわざ使いを送るでしょうか。また、松姫もそれを受入れて、ホイホイと彼に会いに行く準備などするでしょうか。松姫からすれば、少女時代のおそらく淡い恋心に似た気持ちは、武田氏の滅亡でとっくにどこかにすっ飛んでしまっているはずです。まして、ほんの数ヶ月前に自分の兄弟を初めとした武田一族を根絶させた信忠に会いに行き、自分だけが幸せになろうなんてことは、当時の信仰心、いやそれよりも時代を超越した普通の人間の感情を持った人間には到底できることではないと思います。加えて、自分のそばには、親一族を失った幼い姪たちもいるわけで、このような「迎え」という状況は、全くもって現実に目をつぶった想像からの創作としか思えません。詰まるところは、信忠が本能寺の変で死亡(彼は、父信長とは別に二条城で自刃)してしまい、それ以降は、当然のことながら歴史から消えてしまった人物であるために、松姫との間にプラトニックで淡い悲恋のストーリーがあったという、信忠の側からは決して確認の取れない「事実」を拡大して、劇的なストーリーを作り上げたかったということなんでしょう。その迎えに応じて、松姫がいそいそと信忠に会いに行く準備をしていたが、劇的なタイミングでの彼の死によってそれが果たせず、そのために彼自身と武田氏の菩提を弔うために出家したという、松姫の側からすると、果たせなかった恋の想いを胸の中に抱いたまま、平穏な余生を過ごしたということになるんでしょうね。それでも、仮にこのストーリーを事実として、もし松姫の方に信忠の「迎え」に応じようとする気持ちがあったとしたら、それこそ彼女は倫理観のない節操のない女性にとして貶められてしまいますよ。この悲恋のストーリーを「作った」人(たち)は、それによって松姫がそんなにも倫理観のない、だらしない女性だったという印象を後世に残すことになってしまうということを考えるだけの想像力があったのでしょうか。また、本能寺の変の後に開かれた、織田家の後継を決めるいわゆる清洲会議で、織田家筆頭家老の柴田勝家が信長三男の信孝を推すのに対して、当時の豊臣秀吉が手を引いて連れてきた信忠の嫡男の三法師(後の織田秀信、関が原の戦いの際に岐阜城主として石田三成率いる西軍に味方し、その後若くして病死)が、富士山麓で密かに逢瀬を遂げた信忠と松姫との間の子供だったなどという、とんでもなく飛躍した話もあると聞いたことがありますが、これはもう創作の極みでしょうね。そこまで飛躍してでも、松姫と信忠との間に「いいこと」があったという話を作り上げたかったのでしょうか。

いずれにしても、武田信玄、織田信長という、その時代を代表する、必然的には敵対する超英雄同士の娘と息子のプラトニックな恋のストーリーは、いくつかの本当の事実を、それに想像を加えて結びつけ、お互いに埋めがたい、いろいろな意味での「距離」がある二人を精神的に結びつけるだけではなく、彼らを物理的に結びつけようとする前に悲劇が起こってしまったという新しい「史実」を作り上げることで、受動的に生きた彼女の人生に「華」を添えたいという気持ちから出たものだと思います。それはさて置いても、松姫は、激動する時代に翻弄されながらも、懸命に前を向いて生きた一女性であったことは間違いない事実だと思います。
(右の写真は信松院にあるにある松姫の墓。下の写真は信松院にあった石像。松姫と信忠を添い遂げさせたいという気持ちからつくられたものか)
    
   
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