お部屋に爽やかな春をよぶ…朝日炭




室蘭本線 志文駅から万字炭山23.8kmを結んでいた、
旧国鉄 万字線は沿線に10か所以上の炭鉱を抱えていた。
この上志文駅は農業倉庫として保存されている。 上志文駅

道々を夕張方面に向かう。
上志文を出て最初の集落が朝日だ。 (マウスon)



1986年に鉄道公園として保存された朝日駅跡は、
北海道の木造小駅の雰囲気のままだ。
手入れは行き届いている。 朝日駅跡


駅構内には開基100年記念の碑や遮断機、動輪などが保存されている。
また2000年にはSL保存機のB20-1が展示された。
かつて付近には微細粉の重液サイクロン設備を備えた80t/時の大型選炭場が存在した。 (マウスon)

訪れる人も少ないようだが、付近には遊具や鯉池があり、
小さな子供達も遊べる施設だ。
昭和27年には石炭貨車(30t)9輌の暴走事故があった。 木造駅舎

駅名標のすぐ裏手に広がる遺構。
ブレーキの緩みから下り勾配を自走した貨車は、次駅上志文を時速60qで通過し、
志文駅の待避線で脱線停止、4輌大破ながら巻き添えのけが人は出なかったようだ。 駅名標

雪の積もる廃線跡を少し歩き、
炭鉱跡の中心部へ入る。 廃線跡

山中に大きな遺構が現れた。
これは重液用の貯水施設の一部だ。 廃祉



鉄筋コンクリート造の遺構。
重液サイクロン装置は 「重液」比重1.4の石炭と比重2.5の岩石の中間程度の比重(=1.8)を持つ液 の旋回流によって生じる遠心力を利用して、
微粉塵の分離を行う装置である。 遺構

廃墟のRCからつららが垂れる。
昭和33年から39年にかけて、三次の合理化がすすめられ、
5年間で選炭所は1.5倍の処理能力となる。 氷柱

森に還る遺構。
福利厚生も充実し、昭和30年には付近の沢から取水し、
塩素滅菌した簡易水道が引かれ以前の水不足は解消された。 貯水槽

斜面から突き出るレイル。
付近には従業員用浴場が設置、浴槽・洗い場に「伊豆青石」が用いられ、
保温性が良く豊富な水による澄んだ浴槽が朝日炭鉱の自慢であったようだ。 レール

森を移動すると、点々と廃墟が存在する。
朝日炭鉱再建合理化の昭和30年代は、一人当たりの月能率18.4tが強いられ、
石炭鉱業整備事業団による業界全体の合理化推進の時期であった。 廃墟

谷間に小屋が見えた。
酷く歪んでいるようだが
近づいてみよう。 小屋

トタン製の小屋はポンプ室のようだが、
内部には何もなく、
そして積年の豪雪で大きく歪んでいる。 (マウスon)

奥には施設跡は無く、炭鉱跡の谷間を振返る。
朝日炭鉱は家庭用の暖房炭の採掘が主流であり、仲買を通さずホクレンに直接卸すことで、
合理化を推進し、安定需要、安定経営へと繋がっていた。 炭鉱跡


斜面の奥に何か遺構が見える。
どうやら坑口かもしれない。
接近してみる。 坑口


大きな坑口が現れた。
大量の水が流れており、まるで水路のようだ。 坑口


坑口付近は深い汚泥で、水は澄んでいる。
フェンスの向こうに本坑があるようだ。
ストックで泥の深さを探りながら近づく。 坑道

それでは入坑してみよう。
ヘドロは深く、やたらと沈み込む。
深さに注意しながらの入坑だ。 入坑


奥には密閉された坑門らしきものが見える。
汚泥が深く右足が沈み込む前に、左足を着地しないと、
底なし沼よろしく埋没する。 坑道


頭上には配管が這い、
奥はホッパーのような吐出口がある。
相変わらず泥が深く膝上まで沈み込み、
撹拌した泥内から泡が噴き出る。 鍾乳石


泥の海の底に届かないまま奥を目指す。
足が重い。 坑口


やはりホッパーの機能も有していたようで、
坑内に炭塊が散乱する。 ホッパー


これが最奥の風景で、足元には巨大なポイントが存在する。
坑口はレイルで閂され、密封の最上部からも水が噴き出している。
はたして、向こう側は完全水没なのだろう。 最奥


意匠には「朝日本坑」と書かれている。
これは選炭工場に繋がる通洞坑で、 -469mの南部斜坑と繋がるメイン坑だ。 朝日本坑


坑口を出ても、付近には遺構が点在する。
600馬力の巻上機の残骸だ。 選鉱所


内部は一部崩落している。
コンクリートは荒い。 精錬


内部から青空を見上げる。
昭和31年(1956)には本坑坑内の自然発火の災害が発生したが、
幸い死者は出なかった。 廃墟


まだまだ森の中の廃祉は続く。
災害後は非常事態宣言がなされ、坑内環境の見直し、
通気坑道の設置、全充填区画採炭を実施、保安向上が図られた。 (マウスon)

巻上機付近には煉瓦の遺構もある。
かつては原炭ポケット、チップラー、原炭ベルトコンベヤー施設もあったという。
しかし劣化が著しい。 煉瓦

熊笹の斜面上に何か見える。
斜坑かもしれない。
急な斜面を登る。 斜面

不思議な形状の櫓の遺構がある。
これは索道の支点だ。 櫓

その櫓の奥には密閉された斜坑があった。
下からは激藪で、その坑口は見えない。
これは-250mの南大坑道、-320mの北大坑道などと繋がる斜坑だ。 斜坑

振り返るとプーリーを介して、先ほどのRCの架台の遺構に結びつく。
この斜坑からの運搬設備の合理化は、
昭和33年〜36年に渡り、施工された。 プーリー

「南部斜坑坑口」と書かれた銘板が残る。
腐食したゲートバルブが坑口に生える。 南部斜坑

この支点を軸に、
斜坑から原炭を巻き上げていたのだ。 索道

斜坑の下部には巻上機の基礎らしき遺構が残る。
最終的には300馬力の巻上機と600馬力の巻き上げ機が並列していた。 巻上機


今度は朝日川に沿って遡る。
林道沿いには火薬庫のような建築物が残存する。 火薬庫


斜面のかなり上部にも別の煉瓦製の火薬庫が並ぶ。
重厚な3か所の扉がある。 火薬庫




その上部にも酷く崩れたの火薬庫がある。
朝日炭鉱には職員の『職階制度』というものが無く、
他の炭鉱と異なり、職員と鉱員で住む地域を隔てるという事も無かったという。 火薬庫

更に上流域には封鎖され扉の付けられた坑口跡がある。
附近にはシイタケ栽培の室などがある。 坑口


内部にはレイルが残る。
すぐに埋没しているが、支保工も残る。
これはロープ坑道と呼ばれた本坑斜坑に接続する坑道だ。 坑道


坑道上部には蜘蛛の卵がぶら下がっている。
外部と遮断され、気温や湿度が適しているのだろう。 マユ


更に尾根へ向けて沢を登る。
資料では風洞の記録がある。 小川


沢沿いにはレールが何本も残っている。
レールの高さは63mm程度なので、9s級と思われる。
こんな山中にも軌道があったようだ。 レール


そのレイルの先には煉瓦製の遺構だ。
これは本坑扇風機の遺構だ。 扇風機室


第一次合理化工事の昭和37年(1962)は石油輸入自由化に伴い、
斜陽化から合理化を経て閉山に向かう過渡期である。
安価な海外炭や石油の台頭するなかでの立て直し政策が『スクラップ&ビルド』である 扇風機室


内部にはスクラムベルトのかかるプーリーが残存する。
原動機は存在しない。 扇風機室


外部は煉瓦とRCの混在した造りだ。
しかも一面が苔に覆われている。 扇風機室


扇風機も外観の形状をとどめている。
上部の筒は末広装置=拡散装置である。 扇風機

扇風機周辺には埋没した坑口や放射筒が残る。
『スクラップ&ビルド』政策は国費を投入しての設備拡充による合理化、
非能率炭鉱の整理促進、それに伴う炭鉱離職者対策が軸だ。 扇風機


車軸やプーリーの遺構もある。
第一次から五次に渡る石炭政策は、
安定どころか各炭鉱を危機的様相に追い込むこととなる。 車軸

標高を稼ぐとそこにはひどく腐食した遺構がある。
百馬力捲揚機の廃祉だ。 巻揚げ機


内燃機関か原動機を利用した斜坑からの原炭巻揚げ施設の廃祉だ。
巨大なプーリーにはブロックブレーキが備わる。 巻揚げ機




内燃機関か原動機を利用した斜坑からの原炭巻揚げ施設の廃祉だ。
ワイヤーロープの過巻を防ぐため、
ウォームギヤによるワイヤーガイドもある。 (マウスon)


更に上部には無動力のワイヤーガイドがある。
間違いなくこの延長に斜坑が存在するはずだ。 ローラー


付近にはトロッコの車軸が残存する。
軌間は約800mmと珍しいナローゲージかもしれない。 トロッコ


更に標高210mまで登坂すると封鎖された小さな坑口がある。
北部斜坑の坑口だ。
日産100t体制を目指した合理化工事の痕跡だ。 斜坑


その脇には小さな小屋がある。
これは北部扇風機室だ。 扇風機室


内部には扇風機、原動機、トランス等の遺構が残存する。
保存状態は驚くほど良い。 扇風機




昭和49年まで操業を続けられたのは、労使協調、そして福利の充実が良く、
従業員の定着率が高かったことに起因する。 扇風機


昭和47年朝日炭鉱は労使一体となり、
当時掘り進んでいた炭層の寿命が2年であることを見越しての、 深部炭層の開発に着手する。
閉山の嵐が吹き荒れる中の、思い切った開発計画であった。 扇風機





戻る

扇風機室
トップページへ

トップページへ