五階級の職員住宅
万字線は明治45年測量、大正3年完成。
ここ万字駅は当初木造、機関車庫や給水給炭設備も建設された。
現在その建屋は郵便局として保存されている。
駅から近い仲町付近にも廃墟が目立つ。
当初の開坑は南部の二見沢地区であったが、
将来の発展と弊害を考慮し、この北部仲町付近をあえて市街地と指定した。
市街地付近を歩く。
料飲店、呉服店、旅館、理髪店、さらに説教所(=寺)も
二見地区からこの仲町地区に移転してくることとなる。
いたる所に廃墟が目立つ。
万字線開通後、万字駅や鉄道従業員社宅も付近に建設され、
ますます仲町の繁栄を助長した。
更に上流域へ進む。
万字市街と万字炭山駅間の曙町は、
万字寄りを「市街地」、炭山駅寄りを「番外地」と呼んでいた。
今は無き万字炭山駅舎である。
万字駅と同時に開設されたものの大正9年まで旅客扱いは無かったため、
仲町万字駅で人は乗降し、万字市街地の活況は加速した。
一方は万字炭山駅、もう一方は選炭工場である。
この先の選炭工場跡方面へ向かう。
主選炭機付近の遺構を探索する。
いよいよ炭鉱跡地に進むとそこは万字炭山森林公園として整備されている。
付近の職員社宅は「甲乙丙丁戊」の五段階に分け、
身分に応じて貸与していた。
「旭町」「西原町」と記載された腐食激しい看板が残る。
診療所、分配所、そして簡易水道の敷設も行われた。
今は公園と原野が残るまでだ。
付近には遺構が目立ってきた。
昭和28年に開業した生活協同組合は、
組合員数771名に及び、食料だけでなく衣料、電気器具なども扱っていた。
半ば崩れた積込ビンの廃墟である。
バケットエレベーターやベルトコンベヤーで運搬された、
粉炭や中塊がここから貨車に積載されたのだ。
精炭ポケット内には積込施設が残る。
内部は荒廃しすぐに崩れている。
付近には炭塊が落ちている。
ズリ山に向けて登攀すると煉瓦製の遺構がある。
これは恐らく扇風機の制御室だと思われる。
対偶式通気法で坑内照明の制御もここで行っていたかもしれない。
内部は電気に関する施設のようだ。
中央主要扇風機は3台あり、
ガス干渉計を使用した精密検査を行い保安に万全を期していたようだ。
昭和初期の雰囲気を残す椅子と机がある。
発火防止策として通気の独立や、
粘土壁による漏風の防止を行い、保安規則は遵守されていたようだ。
斜面に残るバケットエレベーターの廃祉。
主原炭ポケットからチェンフィーダーを介して主選機に投げ込まれた炭塊は、
このエレベータを通り再選機に向かう。
エレベーター下流の再選炭ポケットと再選機。
これは相当大規模な遺構だ。
今回は春・秋二回に分けての探索だ。
下部には煉瓦製の遺構があり、
これは恐らく変電に関する設備だと思われる。
シックナーに繋がるサンドポンプやエレベーターの電力を供給していたのだろう。
ここからはポンポロムイ川沿いに遡り、
二見沢方面へ向かう。
いよいよ採炭現場へ。
すぐに遺構が現れる。
付近には450人収容の福利厚生会館があり、
映画芝居の興業が行われたが、昭和30年全焼した。
シックナーと給水に係わる廃墟だ。
全焼した万字坑夫娯楽場は3年の空白を経て再建され、
浴場・理容所・プール・児童遊園地なども設置されていた。
そして対岸には塞がれた坑口だ。
昭和51年閉塞の「大坑道」である。
手前の橋梁はすでに崩れている。
その上流に再び坑口が現れた。
これは新斜坑か第一斜坑のなれの果てであろう。
ここも有線電車が走っていたかもしれない。
奥には開閉所のような廃墟がある。
立坑は存在していなっかたので、繰込み所の廃墟かもしれない。
近くには廃車が朽ちている。
山中には重厚な石垣が残存する。
昭和35年、万字の人口は3,614名、世帯数725戸。
現在は静かな街となっている。
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