鹿角を見つける


平和鉱業所の前身である若鍋炭鉱が開鉱したのは、明治39年に遡る。
しかしながら大正3年に発生したガス爆発大事故により、
死者423名を出す大惨事と相成った。
その後、石狩石炭の事業は悪化、北炭と合併した大正9年以降も
事故が相次ぎ、昭和5年には一度閉山を迎える。

昭和11年に再び開鉱し、昭和41年には出炭量が100万t越えを記録する。
昭和43年には坑内火災で31名が亡くなる大事故が発生。
その後50年に閉山を迎える。


夕張市の南方、現在は平和運動公園となっている地帯に平和鉱業所はあった。

平和運動公園

ズリ山 選炭工場はすべて運動公園に取って代わってしまったが、
脇には大きなズリ山があった。


平和運動公園゙ 平和運動公園の端から谷に分け入る。
道路からは炭坑跡地の痕跡は何も見えない。




志幌加別川

志幌加別川を渡る橋梁は土砂に覆われ、
1本の鹿路だけが見える。


橋を渡り、奥へ進む。

志幌加別川にも遺構が崩れている。


橋脚跡

川の真ん中には古いピアの跡が残っている。



坑口

広大な荒地には草が生い茂り、

その奥に坑口が現れた・・・。

人道竪入坑口は密閉されている。
草が茂り、近づくと露で水没状態となる。

なぜか人道竪入の脇にはスイカが落ちている。

スイカ

数個あるようだ。

遺構は森の中に多数残っている。

一区水平坑口

すぐ右手には半ば埋もれて、
一区水平坑口が残存する。




更にその脇には、プレートガータの、
赤い歩道橋のようなものが棄てられている。
おそらく、夕張鉄道跡をサイクリングロード化したときに、
使用したもので、老朽後架け替えたものだと思われる。
この付近には、多くの遺構が残る。


坑口

一区水平坑口は2/3以上が埋没している。

少し山中に進むと、

配管

土砂に埋もれた配管が露出している。
80A程度の太さでフランジとエルボが組み合わさっている。


遺構

憂愁な森の奥には、更に遺構が残る。

エゾシカ数頭が警戒の口笛を鳴らして、逃げていった。

奥には坑口が現れた。

一区人道斜坑

一区人道斜坑だ。
密閉されているが、坑門に目立った劣化は見られない。


意匠

意匠も残り、「平和炭礦」「人道斜坑」の文字が見える。
北炭の社紋もくっきりと。



森に還る、倒れた電信柱があった。
碍子も残るが、木製の電柱は自然に還ろうとしている。



すこし上流へ移動すると、

西卓越

エゾシカの角が落ちていた。
いつも山中をかなり歩いているが、見つけられるのは稀だ。


選炭場

再び志幌加別川の上流に達すると、選炭場らしき跡地に来た。
川向こうに小屋が見えた。



施設跡

川を渡る軌道らしき跡がある。
貯炭と選炭の施設が目に浮かぶ。


未選ビン

振り返ると森に埋もれた、
未選ビンへの投入施設が残存していた。


未選ビン跡

大迫力の投入施設。
急な斜面に残っている。
近づいてみよう。






迫力の未選ビン投入施設跡。
いい状態で残っている。



窓

上部は操作室だろうか。
割れた窓ガラスが見える。

廃墟

廃墟に入る。
足元は非常に危険。

内部

内部の壁は劣化が激しい。
コンクリートは所々、剥がれ落ちている。

彩り

内部から森を望む。
ほとんどの窓ガラスは割れている。

階段

心もとない、木造の階段が現れた。
そろりと登って、上を目指す。

いよいよ最上部に到達した。

上部抗

床板は腐り、トタンは剥がれている。
雪の影響も大きいようだ。



上部

更に斜面を登り、
全体が見渡せる高さまで来た。

接近

再び接近し、対極側から下る。

操作室

操作室と思われる、先端の部屋は、
すでに床が腐っている・・・。

床

奥まで入りたかったが、
床は抜けている。

鉱山跡

森に還りつつある、大きな施設を十分探索し、
下山した。




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坑口跡
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