鉱脈通う 山の背に
入り口には立派な看板がある。
かつての繁栄を記憶にとどめる為か、
設備の配置図やモノクロの写真も掲載してある。
登り路は急で、草が生い茂り、
轍も定かでなくなっている。
街を背に登る。
林道の途中には大きな荒地もある。
最盛期の昭和9年の鉱夫数は221名とそれだけの暮らしがあったのだ。
林道を歩いて遡る。
そろそろ鉱山跡地の中心部に潜る。
森の中にコンクリートの廃祉が現れた。
これは水利に関わる施設のようだ。
コンクリートの廃祉に向かって入林する。
笹の藪で、踏み分け路すら無い。
廃墟へ近づく。
廃墟は三連同一のものが並んでいる。
コンクリートは劣化し、一部剥がれている。
廃墟の上部には不思議な窓がある。
高くて中は覗けない。
横の建築物と含め、
これは貯水槽の一部らしい。
建物は非常に接近して建設されている。
通り抜けれないほど、隙間は少ない。
付近にはこれらの建物以外見えない。
貯水槽を背にもう少し山中に入る。
熊笹のひどい藪だ。
奥に登ると、別の廃墟が見えた。
昭和7年には20t/日の全泥式青化精錬所が稼働。
基礎だけが残る建物跡。
付近を探索してみよう。
袋状の構造物もある。
内部は何もない。
昭和9年には40t/日の精錬所を増設。
木漏れ日の中、分析所の基礎が広がる。
昭和9年以降は自家製錬も活発になってきたようだが、
昭和12年の企業による買収後、さらに躍進を遂げることとなる。
倒れた白樺が、廃墟に横たわる。
斜面に対して横方向がかなり広い。
苔むした階段がある。
年月による風化が感じられる。
平場の上にも建物跡が広がる。
「北ノ王」と言うだけの規模を誇る。
石垣の崩れた部分もある。
ここからは昭和12年新設の青化精錬所跡が広がる。
本坑が特徴的だったのは『土砂鉱』というものだった。
円形のシックナーも残存する。
土砂鉱は風化淘汰による堆積鉱床である。
カスケードの精錬所がその全体像を現した。
土砂鉱は表土に堆積しているため、坑道ではなく露天掘りが一般的だ。
一般的な鉱山のように地中深くを採掘しなかったのが特徴と言える。
特に
「スチームショベル」米国エリノ社製、3名操縦、採掘能力1,000t/
日、人夫200名に匹敵
という大型重機による掘削が行われたという。
新設された青化精錬所は日産300t処理。
翌年には浮遊選鉱設備50t/日も増設に至る。
盛時の選鉱所内部が想像できない、
自然に同化した姿だ。
資料によると昭和10年以降は生産高の数値が記載されていない。
これは戦時の秘匿事項に関わる部分だ。
しかし産金量の推移には不思議な部分もある。
森の奥には巨大な煙突が見え隠れする。
買収年の昭和12年には256.2sの産金量を誇り、
これは前年比155.6%である。
高さ20mを超える巨大煙突。
産金量の勢いは昭和13年も続き、対前年比152.9%、買収前の2.4倍増である。
しかし増勢もここまでとなる。
煙突内部にはかつてヒグマの足跡が残っていたという。
昭和14年からは減産に転じ、前年比96%、その後年々産金量は減少の一途を辿り、
最盛期の20.2%、閉山前年の昭和17年には7.9%に留まる。
分析所に近い製錬施設跡。
政府の産金奨励、金増産運動、そして社としての大構想を背景としての
この大幅な減産はどういった理由なのだろう。
空を見上げる廃墟群。
昭和14年に減産に転じ、16年激減ということは、
本格操業後2,3年で鉱量枯渇状態に陥り、生産を圧迫したこととなる。
製錬所の巨大石垣。
壮大な発展計画の裏側で、やせ細る金鉱山。
もしかすると政府による金政策以前に、閉山が内在的だったのかもしれない。
今も杜に残る製錬所の廃祉。
最盛期には、わずか2年間で金山社宅は新築に代わり、
20数件のカフェーが軒を連ねていたという。
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