百二十の灯、十八の息吹
岡山県北部、美作の山々に抱かれた城下町・津山。
江戸初期、森忠政が築いた津山城を中心に町は広がり、今も石垣と桜がその記憶を守っている。
春には約千本の桜が鶴山公園を彩り、日本さくら名所100選にも数えられる。
鉱山跡地で最初に目立つ建物はこの鉱山事務所跡だ。
既に完全に倒壊している。
付近にはスレートの建屋も残る。
これは資材倉庫のようだ。
倉庫内部は様々な資材が残存しているが、
使用可能な物品は皆無のようだ。
付近の斜面に残る選鉱所に到達した。
昭和33年(1958)11月完成の浮遊選鉱所跡だ。
浮遊選鉱は昭和29年頃から発達し、
低品位の鉱床でも採掘の価値が高まってきた。
選鉱/製錬のコストは過去においては鉱石価格の約 25%が製錬の取り分とされていたが、
技術的な合理化が進んだ今、約 5%の取り分しかない。
製錬が“高付加価値”から“低マージンの大量処理”へと変化した経緯は、
自動化・大型設備の導入、湿式製錬(SxEw法)などの新技術の浸透、
副産物の回収技術の向上などが基盤となる。
製錬が化学変化を用いるのに対し、選鉱は鉱物の物理的性状の差を利用する。
つまり、色/硬さ/比重/磁性/帯電性/表面の濡れやすさなどである。
表面の濡れやすさとは、ワックスを塗った車のように水滴が丸くなり弾くものを濡れにくいと表現し、
ワックスがなく水滴が平たく馴染むものを濡れやすいとイメージできる。
このように濡れにくいものを『疎水性』と呼び、
濡れやすいものを『親水性』という。
これら濡れやすさを利用した選鉱法が浮遊選鉱であり、
一般に岩石は疎水性(濡れにくい)で鉱物は親水性(濡れやすい)であることが多い。
粉砕して細かくなった鉱石を水槽に入れて撹拌する。
その状態で界面活性剤や油を添加し下から空気を吹き込む。
疎水性の物質が泡と結びついて浮き上がり、
逆に親水性の物資は底に沈むことで分離できる。
かつては破棄されていた低品位鉱からの回収率も高く、
鉱山の採算性、ひいては金属価格の下落にも貢献した選鉱法である。
昭和鉱業(株)竜山鉱業所、つまり竜山鉱山は、
大正8年(1919)頃には日漁鉱業株式会社により開発が進み、
準重要鉱山の指定も受けた経緯があったが、昭和8年以来休山となった。
昭和23年(1948)には昭和鉱業株式会社が買収し、
残鉱を採掘、昭和25年(1950)に高品位の銅鉱脈に着脈した。
山中には坑口が残存、
技術と労働の記憶が、静かに岩肌に残る。
坑道は水没、奥で閉鎖されている。
かつては橡谷坑(くぬぎたにこう)、大熊坑、本坑などが存在した。
昭和28年(1953)に旧大熊付近での硫化鉱の露頭採掘が始まった。
昭和33年(1958)に大熊坑が開坑され、翌年125mの斜坑が完成した。
昭和28〜30年にかけて、銅品位約8%の精鉱を年間2,000〜2,500t規模で出鉱。
昭和37年(1962)3月に休山したが、
昭和39年(1964)に勝光鉱業株式会社によって操業が再開された。
昭和28年、吉岡鉱山に導入された浮遊選鉱設備が高い効果を示したことを受け、
岡山県選鉱事業協同組合が設立され、
設備導入が推奨された。
これにより、山宝・柳原・本山などの鉱山が相次いで設置し、
竜山鉱山もそれに倣って建設を進めた。
中小鉱山の浮遊選鉱場設置に関しては、
中小企業設備近代化融資要綱による融資が対応された。
岡山県は銅山が数多く、戦時中には120もの鉱山が息づいていたが、
掘り急ぐ乱掘により荒廃、戦後はそのほとんどが休山した。
昭和30年(1955)11月現在稼行の鉱山はわずか18か所となる。
戻る