経立のいるヤマ

遠野は岩手県の中部、
釜石街道の要地であり、
かつては市場街として発展した。 遠野


アプローチは標高500m付近からの入山だ。
完全な廃道状態で沢に沿って登る。 アプローチ


青ノ木川の支流に沿って登る。
この沢は地形図にも描かれない。 沢登り


しばらく沢を登ると突然巨大な石垣が現れる。
選鉱施設の跡のようだ。 石垣


石垣の脇には苔むした階段がある。
選鉱施設自体は見当たらない。 階段


石垣の上流には水槽のような遺構が残る。
金鉱石を破砕・摩鉱、そして泥状にした痕跡だ。 水槽


選鉱・製錬過程での用水は、
不要な土砂や粘土層の洗浄、
化学反応促進のため鉱石を泥状化するのに使用する。 水槽


沢沿いには朽ちた橋脚が残る。
鉱石を満載した鉱車が走っていたのだろう。 橋脚


橋脚はピアと呼ばれる。
ピア(pier)は鋼材,木材などで作られた筒状の構造物のことで、
自重によって必要な深さまで沈め内部をコンクリートなどで充填したものをいう。 ピア


ここからは更に荒れた廃道となる。
主要鉱区は大鋪、好鋪、澤鋪、クルミ坑。
坑口を追って登る。 廃道


まるで坑口と見まがうほどの穴のような場所もある。
当時の鉱床図と現代の地形図は
積年の地形変化と精密さの相違により似て非なるものとなっている。 坑口


塞がれた坑口が残る。
ブロックが無ければ見落とすかもしれない。 坑口


坑道内部は酷く荒れており、
すぐに埋没している。 坑道内部


鹿のスカルが残る。
健康な個体ほど左右対称の角となる。 鹿


その奥には坑口の成れの果てが残る。
すでに坑口の半分以上が埋没している。 坑口2


更に山深く登ると別の坑口に遭遇だ。
倒れた大木が覆い、荒廃した状況だ。 坑口


こちらの坑口内部には支保工も残る。
これは三つ枠と呼ばれる鳥居型の支保工だ。
しかし羽虫だらけで劣悪な環境だ。 支保工



登攀を繰り返すとやがて最大の坑口に到達した。

坑口の幅は約20mあり、
付近でも最も大きな坑口となる。 坑道


岩の裂け目と見間違うばかりの大坑道である。

六黒見鉱山は昭和10年(1935)当時、政府による産金奨励に協力する形で
日立支山として稼行した。 大坑道


頭上に注意しつつ、坑道内部に進む。

最盛期の従業員は130名にのぼり、生産量は85,037tに及んだ。 坑道


当初 【シュリンケージ法】- 鉱石を下から上へ向かって掘り進める方式、 採掘した鉱石の一部はその場に残し、足場として利用 による採掘であったが、
昭和12年9月の暴風雨による坑道崩壊以降、
充填式採掘法に変更した。 坑道


その後、昭和18年(1943)4月、金山整備令で休山し、
昭和24年(1949)8月には鉱区を買い戻した。 坑内


昭和35年(1960)までの坑道総延長は7,512mに及び、
露頭よりの開発深度は60mであった。 坑口


坑道内は荒れ果ており、
たびたび崩落しているようだ。 坑道内


昭和35年(1960)末までの総産出量は金681,392g、銀170,986g、
銅 62.186tであった。 坑道


坑内にはズリ山が残る。
冒頭の神話にもふさわしい光景だ。 坑内ズリ山


大坑道からの下山中にも、
密閉された坑口を発見する。 坑口


下山中の河原には、
選鉱所の一部らしき廃祉がある。 選鉱施設


【家頭】と彫られた石碑が残る。
「家頭」は家の代表者や一族の長を指す言葉として使われていた。 石碑


近世では庄屋・名主・組頭などの下位または補佐的な役職として「家頭」が存在した。
村落共同体における「家頭」的な立場の人物が村の秩序を支えていたとされていた。 H鋼









戻る

坑道
坑道

トップページへ