祠の語るもの
260年間続いた江戸時代においては約300の藩が存在した。
南部藩(後の盛岡藩)は秋田県の北東部から、
青森県東部を統括した広大な藩だ。
岩美町、国道340号線から鉱山に向かう。
鉱山近くには倉庫のような施設が残る。
しかしこれは林業のものか鉱山の施設かは不明。
鉱山跡に向いて林道を歩く。
石垣は当時の施設のようだ。
石垣は石の加工が少ない『野面積み(のづらつみ)』のようだ。
現地で調達した石を組んだようで、
今は大きな杉が蔓延っている。
石垣で囲まれた上部は、沈殿池のようだ。
選鉱後の鉱石粉を沈め、
酸性の強い坑廃水を中和するのが沈殿池の目的だ
少し進むと選鉱場に到達だ。
円形のコンディショナーかアジテーターが残る。
コンディショナーは浮遊選鉱前に混合沈殿物に浮選液を添加撹拌する装置である。
一部の鉱物に薬を付けて、
水中で浮きやすくまた、逆に沈みやすくする槽だ。
アジテーターは鉱物を含むパルプと呼ばれる泥状の物質から脱水し濃度調整を行う装置だ。
中央底にインペラという羽があり、掻き混ぜながら脱水、スチームの吹き込みによって加温し、
適度な濃度となったパルプは底部のパイプから排出され浮遊選鉱槽に向かう。
レンガの遺構も残る。
明治37年(1904)には有望な鉱区が予想され、
旧坑を再開発したが短期間で頓挫している。
斜面に石垣で組まれた選鉱施設の基礎がある。
大正時代には東亜鉱業(株)の手に経営権は移り、
年間800tの金銀銅鉱を生産した。
選鉱所の一画に祠のような施設がある。
当時、鉱石は日立製錬所に売鉱、その質の良さが証明された。
立派な祠は朽ち果てずに残存している。
銅を製錬することを『吹く』という地方がある。
『吹屋』などはその好例である。
祠には中央の蟇股(かえるまた)、
そして紅梁も残る。
マウスon 祠
祠脇には石碑がある。
『出雲大社 明治二十三年 三月十六日 大日如来 牛馬安全』。
出雲大社といえばあの石見銀山の近隣だ。
石見銀山は明治30年頃、大森鉱山と名乗る銅山であった。
当時、小坂製錬所の1割は大森鉱山製の粗銅だと言われた。
もしや、石見銀山・出雲大社・本銅鉱山に
何らかの関係性があるのだろうか。
昭和13年(1938)9月には探鉱により富鉱の発見に至り、
月産50tの生産を上げることとなる。
その後、岩手鉱山株式会社を設立、
200t/日の選鉱場の建設と機械化が推し進められる。
昭和16年(1941)より稼働した選鉱場であったが、
翌年4月には選鉱場基礎が崩壊、
直ちに解体と相成った。
上流域の鉱区を目指し、
鉱山道路を登る。
鉱山道路を遡ると、
一軒の大きな農家の廃屋が残る。
その奥には再び神社の廃祉と
朽ちた鳥居が残る。
かつての南部藩時代、舟木御山と呼ばれた本坑は、
労働者を尾去沢鉱山に移動させ、
舟木御山はその名称だけが残ることとなる。
しかし秋田南部領の各鉱山に対し、
この山は本家の意味を持って『本銅みやま』と呼ばれるようになる。
これが本銅鉱山の所以である。
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