本銅鉱山跡 探検: 北の細道 本銅鉱山跡

本銅鉱山であかがねを想う




 銅(=あかがね)は金・銀と共に非常に古くから使われ、石器時代にも銅器時代が存在したと言われている。
日本では西暦708年に初めて銅が産出、『和銅開宝』が作られ、やがて奈良の大仏が銅で建立された。
20世紀初めには世界第2位の銅産出国となり、昭和18年には約500の銅山が稼働していたという。

日本の主要銅山の発見は尾去沢鉱山の708年に始まり、
明延鉱山が806年、別子が1690年、小坂1860年、花岡1886年と続く。

浮遊選鉱で選り分けた銅の鉱石から金属の銅を取り出すためには三段階の工程を経て行われる。
まず鉱石から銅分多いマットという化合物をつくり次にそのマットから銅を還元して抽出、
最後に電解精錬によって純粋な銅を作る。

一般に銅鉱石の大部分は黄鉄鉱であり、ここから銅を取り出すためには
周辺の不要となる鉄や硫黄の大部分を取り除かなければならない。

そのために銅鉱石は溶鉱炉や反射炉にてコークスと一緒に加熱、
硫黄や鉄は炉内の吹き込まれた酸素と結合し銅分と分離される。
分離された鉄分は配合された石灰石や珪酸などの融剤と結びついて、
鉱滓となり溶けた銅の上に浮かぶ。

硫黄も同様に二酸化硫黄となりこれは硫酸の製造に用いられる。
銅分にはまだ硫黄が若干残っているが、鉄分が減って銅の純度が高まっている。
これがマット【ハ(かわ)】と呼ばれる化合物である。

その後、転炉と呼ばれるとっくり型の炉内で、下部から空気を吹き込むことで硫黄と酸素が結びつき、
金属の銅が分離される。
転炉で作られる銅は粗銅と呼ばれ、銅分は98%程度となっている。

最後に溶けた粗銅を板状にし、溶液の中で電気を流すと溶けて純粋な銅が陰(-)極に集まる。
その際、含まれる金や銀は泥状と化して底に残る。
これを精製すると純金や純銀がとれる。

つまり銅製錬の工程で副産物として硫酸、金、銀などが産出することとなる。


本銅鉱山の発見年は定かではないが天正年間(1573)にはすでに稼行されていたとされる。
当時は『天正坑』『文禄坑』『慶長坑』『元和坑』などの記録がある。
元和3年には813tの生産に成功し、その10%が税金として上納され藩外にも781tが移出されていた。

やがて南部藩の目に留まり、御手山という管轄に指定、「舟木御山」と名を改め藩の直営として稼行した。
明治、大正と鉱業権者が転々とし、昭和23年の台風による直接被害により
輸送関係も悪影響を受け休山と相成る。

今回のターゲットは山中深くの選鉱所の廃祉だ。
昭和16年より稼動した、200t/日の能力を有した選鉱施設を目指す。

崩壊・鉱山神社・南部藩・・・



鉱山神社
鉱山神社





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