隧道+橋脚+坑口コラボ
鉱山の存在する秋田県旧比内町は平成17年(2005)に、
近隣の大館市に合併された。
鉱山道路は今も林道として残る。
鉱山と下流の選鉱工場までは1.5qの距離があった。
鉱山道路を遡ると、
一軒の大きな農家の廃屋が残る。
昭和26年には選鉱所と発電所が建設された。
鉱山貯鉱舎から選鉱工場までは1/4t架空索道で運搬された。
選鉱工場の一部と思われる遺構がある。
選鉱能力は当初150t/日が昭和29年、選鉱所の増設により180t/日に、
その後、昭和42年には260t/日と処理能力は増加していた。
鉱山跡地は度重なる治山が進み、
ほぼ痕跡が無いようだ。
鉱床は万治/長久/恵比寿/44年/混森/永盛などがあった。
宝念坑目指して山中に分け入る。
鉱山自体は標高500〜800mの諸山に囲まれた糸柄沢(おがらさわ)上流域にある。
しばらく進むと坑口がある。
しかしこれは坑道ではなく運搬用の隧道のようだ。
隧道内部には架線用の碍子が残る。
これは坑外の索道貯鉱舎までの運搬軌道跡だ。
隧道は坑口付近だけがコンクリート巻きで、
内部は素掘りとなっている。
隧道にはレールが残存する。
資料では坑内は4tBL(蓄電池式機関車)1台、
幹線区間は4tDL(ディーゼル機関車)2台が使用されたとある。
隧道内には一部脆い部分があるのか、
支保工で固められた一画がある。
枕木の残る区間もある。
鉱車は12t鉄製が250台、1.0t木製が40台存在した。
上流側の坑口は川に向かっているようだ。
資料には材料運搬用台車が20台、
人車が12台存在したとある。
上流側坑口である。
本坑の品位は銅0.2〜7.46%、鉄54%、硫黄29〜40.7%であった。
上流側坑口の先には沢を渡る、3基の橋脚がある。
一部木橋も残っている。
明治時代は盛況だった立又鉱山は、
大正8年休山、昭和5年に再開するも間もなく休山と、
運営と休山を繰り返す。
昭和11年には日吉鉱山として再開する。
再び昭和18年に大日本鉱業株式会社に買収され、立又鉱山となる。
昭和24年万年坑に着脈、昭和32年 従業員381名、
選鉱後の精鉱は発盛鉱業所製錬所に貨車輸送していた。
並ぶ橋脚の上流にはご覧の格子で閉ざされた隧道が続く。
これは恐らく宝念坑幹線操車場に続くルートだ。
格子から覗くと隧道は続いている。
坑道内立坑から鉱車積みされた鉱石は、1.5tBL 1台と2tDL 5台(蓄電池式機関車)により、
宝念坑幹線操車場まで鉱送された。
隧道の先を追うとコンクリート製の大きな遺構がある。
恐らくこれが宝念坑幹線操車場の廃祉だ。
宝念坑幹線操車場では各坑道から鉱車で集約された鉱石を、
坑外索道貯鉱舎、つまり索道のスタート地点の積込ビンまで軌道を用いて運んでいた。
つまりその中間循環駅だったのだ。
操車場とは空車のトロッコや搬出待ちの鉱車の配置換えなど、
複線の軌道入替ヤードを司る分岐点のようなものだ。
昭和33年(1958)現在 粗鉱を4,500〜5,000t/月採掘し、
浮遊選鉱にて銅品位17%の精鋼300t、亜鉛精鉱70t、
硫化鉄精鉱1,200tを産出していた。
昭和26年(1951)4月から選鉱工場建設に着手した。
用水ポンプやコンベヤー秤量器以外のすべての機器を社外鉱業所から転用し、
昭和27年1月20日より選鉱操業を開始した。
坑道が残る。
これが宝念坑の成れの果てかもしれない。
かつては職員59名、鉱員260名の構成となっていた。
最盛期には職員400名以上、その栄枯盛衰の原風景である。
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