天空の選鉱所

鳥取県日南町は中国山地のほぼ中央に位置し、
西は島根、南は岡山、南西部は広島と3県に接している。 日南町


まずは索道の中継所に向けての入山となる。
資料では山許から湯河南部までの2kmに索道があるとある。 羽幌町


山上には崩壊した木造の施設がある。
索道の動力は30馬力、運搬能力は90〜100t/日であった。 索道


施設には大きな穴がありコンクリート製の塊が脱落している。
これは恐らく緊張所、索道のワイヤーを張るための錘の跡だ。 ウエイト


緊張所内部の崩落は激しい。
なだれ注意の看板がある。 なだれ注意


索道基点の建屋はもはや倒壊寸前だ。
プーリーやワイヤーが通っていたのかもしれない。 索道基点


建屋内部にはレールがある。
緊張索重錘で支索にテンションを掛ける装置のようだ。 レールv


モルタルには『1957』、つまり昭和32年の印がある。
モルタルはセメントと水と砂を混ぜたもの、
これに砂利を追加するとコンクリートとなる。 1957


施設には容量の大きな油さし(オイラー)も残る。
ワイヤーロープや可動部に給脂していたようだ。 油さし


選鉱所への入山ポイントには若松川発電所の取水堰がある。
鳥取県が所有する水路式発電所の設備だ。
平成28年(2016)年3月からの運用開始している。 若松川発電所


まずは付近にある火薬庫の探索だ。
土堤に埋もれるように二棟が残る。 火薬庫


北海道の炭鉱系火薬庫とは様相の異なる造りだ。
ほぼ同形状な二棟は屋根も残存する。 火薬庫


そしていよいよ選鉱場に到着だ。
この粒鉱プラント選鉱場は昭和53年(1978)完成。 約47年が経過している。 選鉱場


一般の選鉱場は図のように斜面に設備される。
上から鉱石を粉砕、サイズを揃えて、
薬剤や比重差を用いて不要/必要な鉱物を選り分けるのである。 選鉱場


選鉱場の最下層は沈殿池のようだ。
粉のズリを含む選鉱用水を重力を用いて浄化するのだ。 沈殿池


選鉱場の1階には貯石舎がある。
選鉱が完了したクローム含有31%の鉱石を出荷する。 貯石舎


若松鉱山と書かれた看板が残る。
貯石舎下部にはハンドル式のホッパー装置がある。
マウスon ハンドル式ホッパー


近隣の車庫には様々な資材が残る。
専用電話やライト類、配管部材もある。 資材跡


製錬したクロムは鉄などとの合金として、ニッケルと共にステンレスを作ったり、
メッキや化学薬品に使用される。
本坑ではクロム鉱石のまま使用し、それは耐火レンガとなった。 貯石舎


付近にはトイレがある。

戦時下は横文字の使用を控えるために、
一時期会社名を「日本苦労無工業(株)」と称した経緯がある。 便所


高圧と掲示された変電施設がある。
生姜岩の受電所と呼ばれた施設だ。
内部にはキュービクルや変圧器が並ぶ。
マウスon 高圧


高圧カットアウトなどの高圧受電配電盤、避雷器、
OCB(Oil Circuit Breaker)と呼ばれる 「油入遮断機」が残る。
マウスon 変圧器


機械選鉱場の看板が今なお残る建屋がある。
こちらは比重選鉱を行った後、精鉱を流送桶で流すプラントだ。
マウスon 機械選鉱場


本坑の発見には諸説あり明治32年(1899)の説、
明治28年(1895)大洪水の復旧工事の際に工事現場で重い石が発見された説などがある。 整理整頓


こちらがハルツジガーと呼ばれる比重選鉱機である。
3床式8台と2床式3台の合計11台が設置してある。
粒鉱の3.7o以下の粒に使用しその能力は1,000t/月であった。 ハルツジガー


ハルツジガーは一般に5〜8mmの鉱石に利用し、
固定した網に波を起こした上下運動する水を用いる。 比重選鉱


波の力で踊る粒の鉱石の中で、
重いものが早く沈む原理を流用して、選別を行う装置である。
重い精鉱は下部に、廃石は上の層に堆積する。
マウスon ハルツジガー


重要なのは粒子の大きさを事前に揃えることであり、
そうしないと粒子の大きな軽い岩石と粒子の小さな重い鉱石が同時に沈んでしまうこととなる。 ハルツジガー


鉱山発見当初はマンガン鉱区があると試掘許可が申請されたが、
実際にはクローム鉄鉱であることがわかり、出願許可を訂正して申請された。 Vベルト


ロールクラッシャ(クラッシングロール)の備品がある。
クラッシングロールは回転する円筒状のロールの間に鉱石を投入し、
大きな鉱石を噛み込みながら粉砕する装置だ。
マウスon ロールクラッシャ


選鉱場の屋根は大きく崩れている。
岡山・広島の県境、道後山の北北西標高770m付近、
積雪も多い。 選鉱場


20mm以下に砕かれた鉱石は、
ロール用ホッパーを経てこの4次クラッシャ(ロール式)に投入される。
ここで3.7mm以下となったものが下流のハルツジガー比重選鉱に向かう。 ロールクラッシャ


鉱石発見当時はアメリカに着火剤や酸化剤の原料として輸出された経緯がある。
その後、産物であるクロム鉱石は国内の耐火レンガの材料として使用されてきた。 選鉱


1.0mm以下となった鉱石は、
こちらのウィルフレーテーブル比重選鉱機2台で選鉱が行われる。 ウィルフレーテーブル


テーブル選鉱機、ウィルフレーテーブル比重選鉱機は、
3〜5°の勾配のついた盤を長手方向に振動しながら、
短手方向に水を流す。 ウィルフレーテーブル


長手方向にリッフルという桟が付いており、
テーブル全体が下流方向に前進し、急激に後退する振動を繰り返す。
この動きにより慣性が発生して泥状にした鉱石は下流方向に進んでいく。 テーブル選鉱機


その振動方向と直角に給水すると、軽い脈石が水で流されて桟の上に残らず下部に堆積する。
比重の大きな鉱物は水に流されず、
振動で長手下流に移動し、これを精鉱として集める。 リッフル


ジョークラッシャは70mm以上の鉱石をそれ以下に粉砕する装置だ。
中心が偏ったホイールが回転し、スイングジョーと呼ばれる板が反復することにより、
あご(ジョー)のように繰り返し挟み込む作用で鉱石を磨り潰す機械だ。
マウスon ジョークラッシャ


鉱石はローヘッドスクリーンと呼ばれる、
網の目で粒や塊の大きさを分級する。 スクリーン


粗鉱ホッパーにはフィーダーという振動による供給装置が設置されている。
70mm/50mm/40mm/10mm/3.7mm/1.0mmと、
段階的に繰り返し粉砕を行うのである。 粗鉱ホッパー


粗鉱が流れるベルトコンベヤーだ。
タイヤショベルにより破砕場ホッパーへ運ばれた塊は、
粗鉱堆積場へ投下堆積される。 粗鉱


1次スクリーンは50mmを境に、
それ以下の鉱石を網の目から通し、
それ以上の塊は通さずに選り分ける。 1次スクリーン


明治38年(1904)からは官営の八幡製鉄所が完成し、
国内の製鉄が本格化したため、
溶鉱炉の耐火煉瓦の原料として貴重なものとなった。 粗鉱ホッパー


大正8年(1919)2月には若松鉱山株式会社設立、
3年後には商号を日本クローム工業株式会社に改めた。 クラッシャ―


労働者数の推移としては、昭和42年(1967)がピークの114名、出鉱量25,430t/年、
昭和50年(1975)73名、昭和55年(1980)79名、出鉱量16,732t/年、
平成2年(1990)48名、出鉱量14,491t/年、
閉山時には14名との記録がある。 廃祉


こちらは鍛冶関係の工作場のようだ。
金属資材の修理加工、そして製作を行ったようだ。 工作場


工作場にはダイスやタップなどのねじ切り工具類、
やすりやゼロードなどの溶接機材が残っている。 工作場


アンビルや換気用のフードがある。
ここでロウ付けや溶接、板金も行ったのかもしれない。 アンビル


油倉庫は別棟で用意されている。
少量危険物の表示や火気厳禁の看板もある。
これは消防法に従ったもののようだ。 油倉庫


付近には巨大なエンジンと発電機が残る。
これは自家発電用のディーゼル機関で、 180馬力150KVAのスペックがある。 エンジン


坑内外の機械化も推し進められた最盛期、
七号坑にディーゼルエンジン式自家発電装置が設置された。 エンジン


エンジン近くには制御用のキュービクルも残る。
こちらは昭和32年(1957)設置である。 キュービクル


奥には木造の圧気室がある。
空圧工具用の圧縮空気を作るコンプレッサー室だ。 圧気室


昭和37年日立製作所製コンプレッサーと、
昭和36年製三相誘導電動機(モーター)がある。 コンプレッサー


こちらは更に容量の大きな圧縮機だ。
昭和31年製100馬力の大型のものだ。 コンプレッサー


電気関係の倉庫がある。
『電氣』の文字が時代を感じさせる。
マウスon 電氣倉庫


半ば崩れた小屋がある。
広範囲に遺構が散発する。 廃墟


崖の上には鉱車も残る。

昭和27年(1952)10月には近隣の広瀬鉱山と境界紛争が勃発する。
互いの坑道が採掘中に貫通したのである。 鉱車


広瀬鉱山側が提訴したが、
6年後にに和解が進んだ。 トロッコ


昭和24年(1949)に為替レートが1ドル360円に固定された。
その当時の鉱石1t当たりの販売価格は¥10,000。
これは非常に高額な売価だと言える。 レール


粗鉱ホッパーに鉱石を落下させる排出口だ。

そして翌年(1950)に勃発した朝鮮戦争による軍需が
生産量増大に寄与してきた。 粗鉱ホッパー


当時の利益は相当なもので、
それは索道改良工事に表れている。 巻上室


巻上機が残る。

鉱石運搬用の索道の支柱は木製であったが
昭和29年(1954)にはすべて金属製に改修する計画があった。 石垣


埋没した南坑坑口である。

索道は延長2km、
工事金額は当時で550万円の大規模設備投資であった。 南坑


1960年代以降は貿易の自由化が進み、
海外から安価な鉱石が輸入されることとなり、
その競合が始まる。 資材庫


景気の波とともに鉱山経営は斜陽化、
1973年尾為替レート変動制により
それは拍車がかかることとなる。 マウスon 試錘部品


それまで鉱山では『ふるい下』と呼ばれた40mm以下の小塊鉱石を廃棄していたが、
全量採取の計画から、この選鉱場の建設計画に至ることなる。 マウスon 表彰状


小塊鉱石までも選鉱に掛けることで、
精鉱が増加することとなり、
売価もt当たり3万円程度に引き上げることとなった。 詰所


全精鋼を粒鉱化することで、品質の安定を図り、
価格の適正化を目指した。 廃祉


昭和37年(1962)には中国電力(株)との契約を結び、
生姜岩の受電所を完成させた。 貯鉱舎


これは全出力136kw、受電電圧6.6kVの施設で、
電力量の安定供給と坑内の切羽電灯を
カーバイト(化学反応ガス)から電灯照明に切り替えることとなった。 レール


その他、電気発破、ロッカーショベル等の導入により
増産体制を確立していった。 坑口


昭和43年(1968)9月からは景気悪化のために、
3か月間の休山措置を取っている。 マウスon 鉱山事務所


その期間を利用して用水路の大改修を行い、
標高840m付近に設置された総延長700mの用水路は
選鉱を行う鉱山にとってライフラインであった。 鉱石標本


暗渠が決壊し漏水が多く、
特に氷点下となる冬期間はその維持管理には苦労が伴っていた。 埋没


取水部の沢に堰堤を構築し、
中間に三か所の水槽を設け、開渠の改修と共に、
硬質ビニール管の埋設による導水に改良した。 タウンエース


中切四坑という坑道だ。
坑口は閉鎖されている。 中切四坑


最上部から選鉱所を遠望する。

坑内採掘はトップスライシング法と呼ばれる方式が用いられた。 遺構


トップスライシング法は鉱体を数個のブロックに区分して
そのブロックを2.5m程度に水平スライスし、
上のスライスから順次採掘する方法だ。 電装


そして若松鉱山でのこのトップスライシング法は
坑内採掘技術模範鉱山として1965年から3年間の指定を受け、
通商産業大臣表彰や内閣総理大臣表彰を受賞した。 ヘルメット


最盛時には1,200t/月の生産販売を行ったが、
円高やドルショックの余波を受け、400〜500t/月程度の低迷期を迎えた。 事務所


現在残る新選鉱場完成後は一時的に900t/月程度まで回復したが、
その後300t/月程度まで落ち込んだ。 選鉱所


日南町は若松・広瀬のほかに岡山の高瀬鉱山と共にクロム鉱という特殊な需要を保ってたが、
深度が増した坑道や設備、鉱石運搬のコスト高により国際競争力は弱くなり、
経営は不安定となりがちだった。 選鉱所







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