羽幌本坑 火薬庫跡 探検: 北の細道 羽幌本坑 火薬庫跡

羽幌本坑で金石分離をみる



北海道羽幌町


 昭和20年(1945)〜27年(1952)にかけて行なわれた
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領政策の1つとして石炭鉱業が大きな波を受けたのは、
財閥解体に伴う金属鉱山部門と炭鉱部門の分離である。
この『金石分離』は不況の波を呼ぶ結果となった。

その後の本格的な石炭政策は昭和30年9月1日施行の石炭鉱業合理化臨時措置法である。
これは景気後退に伴う石炭不況に対応し、国として措置を講じたものだった。
昭和34年度目標として合理化、4,950万tの生産目標を目指し、
具体的には非能率炭鉱の発生を抑制するために坑口開設制限、
非能率炭鉱の買収閉鎖、立坑方式による炭鉱の若返りと機械化の推進、
石炭価格安定にための標準炭価設定などが根幹であった。

当時は神武景気によって昭和30年度の4,252万tから翌年は4,828万t、
32年度は5,225万tと上昇の一途を辿っていたが、
その実情は人員の増加によるものであった。

増産イコール人員増加という模式が当時の石炭業界には横行しており、
一時的な景気によって炭価引き上げを強行したことは否定される内容であった。
合理化に基づき、単価引き下げを実施しなかったことが安価な重油への需要変化を生むことになった。
そして昭和33年度末には1,200万tにも及ぶ大量貯炭を招く結果となる。

かといって合理化による生産能率の向上を行い、炭価引き下げを実施すると労働者の首切りに直結する。
そこで非能率炭鉱を買収閉鎖して、残存炭鉱に増産の余力を与えなければならず、
その為に新規炭鉱の発生を抑える必要があったのだ。
そこで講じられたのが新規坑口の開設制限で、石炭事業団による坑口開設の許可制が導入されたのである。

ところが昭和30年から35年の間に全国で267の坑口開設許可が認められたものの、
実際には1,184の坑口が開設され、買収閉鎖より遥かに坑口開設が上回り、
合理化法の狙いは全く失われる結果となった。


今回は羽幌鉱業所本坑に残る火薬庫跡の探索だ。
運搬立坑からも離れた山中に残る辛うじての痕跡、そして付近は獣害が懸念される地帯だ。
心して探索したいと思う。

火工所・雷管庫・土提・・・



火薬庫
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