電柱の行方
アプローチから道はほぼ無く藪を抜ける。
三菱鉱業は全国出炭比11%を占め、三井鉱山に次いで第二位のスケールを持っていた。
特に美唄鉱業所は三菱鉱業内の出炭量の25%を占めていた。
周辺にはすぐに水槽のような遺構が現れる。
また一人当たりの出炭量は17〜18tと昭和30年度の全国平均出炭能率12.9tを大きく上回り、
北海道の平均値15tをも遥かに凌駕する好成績を収めている。
足元には碍子が散らばる。
この山中にまで電気が来ていたことが驚きだが、
このような痕跡を追うことで大きな遺構に到達できる。
やがて木製の電柱が現れる。
自然の風景に溶け込み、
木々と見逃しそうな廃祉だ。
木製電柱が主流だったのは昭和30年(1955)までだ。
その後、国産木材の枯渇と耐久性への懸念から、
コンクリート柱への切替が順次進んでいった。
木製電柱が黒褐色なのは耐久性を高めるため、
防腐剤としてクレオソートが高圧注入されているからだ。
電柱に沿って廃道を登る。
滝一坑は傾斜9〜10°、山丈1.65m、炭丈1.4m、地表下深度65m、
出炭量604t/日、人員812名、1日切羽進行速度2.3mのスペックであった。
再び付近には木製の電柱が現れる。
一般に電線が架かっているものを「電力柱」、
電話回線などが架かっているものを「電信柱」というように規定されている。
やがて鉱区中心部に入ったのか、
朽ちた配管が残る。
そして更に登るとレールが埋もれている。
これは軌道というより、柵などに流用したレールのようだ。
ドラム缶が残存する。
いよいよ目的の排気風洞かも知れない。
少し登ると開けた広大な平場がある。
奥の斜面には坑口の存在。
滝一坑 排気風洞に到達だ。
塞がれた円形の坑口がある。
滝一坑の扇風機は設置容量50kVA 負荷容量50kwという能力だった。
運炭線である美唄鉄道各駅の構内には選炭機と精炭貯炭庫があり、
積出は全て専用鉄道を介して行われていた。
真円に近い形状の坑口は、隙間なくブロックで埋められている。
当時の海上輸送は全て小樽港から行われ、
美唄から小樽港までの距離は約100kmとなる。
風洞の脇にはメンテナンス坑か人道坑口がある。
美唄鉱業所は明治27年頃鉱業権取得、大正2年第一坑開坑、
三菱鉱業に買収されたのは大正4年8月である。
これは事故発生時などに排気から入気に風向きを切り替える袖坑だ。
シロッコ型の扇風機ファンは逆回転させても風向きが変わらない。
半ば土砂で埋もれた袖坑。
このような扉付きの別回廊を設置して入気ルートを確保する。
今は無き扉には車風(くるまかぜ)と呼ばれる
排気の一部が入気に混入して再循環する現象を防ぐ意味もある。
何かの基礎にレールが固定されている。
三菱美唄坑は当初8坑が開坑していたが、昭和30年1月 三菱炭坑技術4(1)によると、
鉱区面積1,200万坪、埋蔵量2億4千万tと非常に大きな規模だった。
大木に飲み込まれた機器がある。
これは恐らくベルトコンベヤーの駆動輪、
ドライブプーリーのようだ。
マウスon ドライブプーリー
当時の各坑は常盤坑、通洞坑(開坑昭和7年)、
二坑(昭和3年)、滝ノ沢坑(瀧の沢/滝之沢)、
瀧一坑(昭和13年)、瀧新坑(昭和18年)の6坑3区域に分かれていた。
碍子やコンクリート製の遺構を追うと、
その奥には坑口がある。
滝一坑に到達だ。
鉱区全体の地形はウナギの寝床のように細長く、
それに沿った炭鉱街が形成されている。
よって各坑口から選炭場への集約もある程度分散させざるを得ない状態だった。
三菱のスリーダイヤマークが色濃く残る。
出炭の大部分を占める本坑の我路層は原炭カロリー4,700Calと恵まれた環境ではなく、
精品5,500〜5,800Calを要求されるとすると、更に原炭の増産が必要となった。
増産、それは深部移行を招き、維持坑道の長大化に繋がる。
通気費、排水費は増加し機械化と運搬系統の能率化による
炭価引き下げが要求される。
炭量の限界、そして飛躍的な機械化が難しい中、
他山で使用中の機器の兼用化など
巨大炭鉱の裏で小規模炭鉱には多くの問題がはらんでいた。
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