ラペリングで下る斜坑
函館本線美唄駅より東へ約3kmで山間部に入る。
付近にはかつて社宅が並んでおり、そこから約2kmで鉱業所があり、
下流の美唄鉄道盤の沢駅まで専用岐線によって運炭されていた。
標高150m付近からアクセスする。
選炭機から山腹の崖に沿って約1kmの間に索道が敷設され、
更に山腹沿い1.5kmにわたりトロリー電車の輸車路が湾曲していた。
延々、冬枯れした笹薮の丘陵を登る。
事前に地形図で起伏の少ない部分を選んだが、
藪の種類までは特定できず、これは厄介な部類だ。
電柱と見間違う木がある。
鉱区周辺には平地がほとんどなく、山麓の傾斜地を切り開いて炭住が密集するのが
坑口近くの砿務所付近から望見されたという。
やがて排気風洞疑定地に到着。
5万分の一地形図で1cmの円は500mとなる。
地図上で囲った小さな丸でも実際には500mの範囲を探索することとなる。
そして目的の排気風洞に到達した。
扉のある坑口から左上部に風洞が伸びる。
これは形状から入気坑口のようだ。
扉から奥を望むともう一枚の扉がある。
漏風や車風(くるまかぜ)と呼ばれる、
排気の一部が入気に混入して再循環する現象を防ぐものだ。
坑口より1,270mに第二斜坑があり傾斜15度で昇り500mで坑口に達する。
坑内では1・2番方各13名で採炭を行い、3番方11名で残立払柱の処理と充填、
コンベヤーの延長作業を行っていた。
風洞は上質なコンクリート製のようだ。
当時の砿務所近くには修理工場、繰込所などが犇めきあい
選炭以外の諸設備が集中していた。
坑口は塞がれることなく急激に下っている。
内部の状況を確認したい。
ここからは懸垂下降で下る。
狭い坑道で4面ともコンクリートで覆われている。
14mほど下ると別の坑道と接続している。
先ほど確認した木の扉のある坑道だ。
奥は土砂で埋没している。
埋没箇所の反対側には扉がある。
入気はラペリングで下った斜坑から行われ、
接続するこの水平坑はメンテナンス用のもののようだ。
一枚目の扉を抜けると二枚目の扉がある。
これは先ほど覗いた坑口にある扉の裏側となる。
木材の扉のドア枠には、
『夕』の文字が記載されている。
カタカナなのか夕張の『夕』なのか謎は深まる。
坑道の最も奥でも酸素濃度は20.4%。
問題の無い数値だが、
地下通路には危険が潜んでいる。
入気坑道を下部から望む。
人や資材、原炭が通らない坑道は、
全面コンクリート巻きとなっている。
入気風洞から少し下ると人工物がある。
笹薮に埋もれるコンクリート製の土台のようだ。
周囲に注意しながら下る。
これは電動機や扇風機の土台らしい。
入気坑道のすぐ下方、
つまり排気風洞ではないか。
土台の延長には斜面があり、
斜面には大きな黒い口がある。
やはり黒い穴は坑口だった。
排気風洞、その覆工だ。
こちらな入気坑に比べて大きい。
坑道内部はすぐに埋没している。
かなり急角度な斜坑の様相だ。
このように入気坑と排気坑が接近しているものを『中央式』、
離れているものを『対偶式』と呼ぶ。
マウスon 『中央式』と『対偶式』
別の排気立坑を目指して再び沢を登る。
付近にあったはずの坑外トロリー電車線はそのまま坑内へと延長され、
約300mで本卸斜坑に接続していた。
沢沿いにはレールが朽ちている。
電車線は水準坑道をさらに奥へ延長され、坑口から680mの位置をトロリーの終点とし、
その後はバッテリーロコが接続していた。
水槽のような遺構がある。
目指す第二坑排気立坑まではまだまだ登る。
沢沿いには遺構が増えてきた。
これは鋼製のタンクのような遺構。
かなりの大きさだ。
沢沿いを歩くのは本来は危険。
急な滝の存在や方位と関係なく進みがちだからだ。
笹薮を避けるため、頻繁に地図と照らし合わせながら進む。
やがて第二斜坑らしき坑口に到達、
手前の直方体はコンクリートの土台が
鋼板で覆われている。
第二斜坑内部は1.2m3炭車を使用し、
坑口では100HP巻上機により下方の水準坑道まで原炭を巻卸していた。
この土台は巻上機の台座のようだ。
坑口が辛うじて開いている。
巻き降ろした原炭はそこから4tバッテリーロコにより引き出し、
水準坑道途中でトロリーロコに引き継いでいた。
坑道内は狭く原炭を運び出した坑道ではないことは確かだ。
トロリーは運行距離1,800mで6t電車3台を運行、
坑外チップラーにてトロッコを展開して原炭を排出する。
坑道はすぐに埋没している。
原炭は索道ポケットに一時貯炭し、
その索道は1,112m、75HP、公称能力毎時50tで選炭機に運ばれる。
坑道内部はコンクリート巻ではなくブロック巻きだ。
コンクリートブロック製障壁は珍しく、
かなり時代が古いのかもしれない。
更に森を進む。
搬出された原炭はバウム水洗による選炭後貨車積みされ、
美唄鉄道盤の沢駅から出炭される。
沢沿いにはワイヤーが残存している。
いよいよ付近が排気立坑跡のはずだ。
笹薮をかき分けた先には、
コンクリート製の大きな基礎がある。
目的の排気立坑に到達だ。
扇風機が設置されていたであろうアンカーボルトが残る。
半ねじというよりはラウンドバーにダイスをたてたもののようだ。
つまりボルト製品ではなく、丸鋼の先をねじ加工したものだ。
坑道は発見できず、これら基礎のみだ。
昭和40年度末の閉山に先立ち、鉱区一部を分離、三栄坑として操業した。
昭和41年6月、再び三舟炭鉱と称して営業したがやがて閉山を迎える。
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