58年間の操業
三笠市は北海道の石炭と鉄道の発祥の地として栄え、
「エゾミカサリュウ」「アンモナイト」をはじめとした多くの化石を産出する、
地質学的にも重要な地域だ。
水の枯れているヌッパの沢貯水池だ。
石狩川水系幾春別川支流 抜羽の沢川にある、
かんがい用の貯水量350m3を誇る堰堤だ。
堰堤の遙か奥からは廃道となる。
鉱区に向けて進む。
ヌッパオマナイ川の上流約300m付近。
明治7年頃ライマンの幌内煙田調査において、
運輸が可能であれば開採の見込みがあるとの調査報告があった。
道なき道を進む。
当初は空知集治監(空知分監)が監自給用に採掘したとある。
斜面を登りきるとコンクリートの遺構がある。
何かの土台か基礎のような形状で、
下部は玉砂利が多数含まれている。
北海道庁勧業年報によると、明治38年この鉱区の坪数は六万六千坪、
採掘量889t、そののち市来知炭鉱と称して
大正4年1,726t、職員13名、鉱夫170名 合計183名で操業した。
当時を知る大木が残る。
石炭は軌道を敷設して馬で運んだが、昭和2年に休山した。
炭質は夫粘結性で家庭用に適してたと言う。
更に登ると何か遺構がある。
この山中に存在する人工物は異彩を放つ。
斜面の廃祉は危険庫のような小屋だ。
ブロック組みで建設され、
その材質はカラミ石のようだ。
゚(からみ)とは銅鉱石を製錬する際に発生する滓(かす)のことである。
過去の製錬法では銅と鉄と硫黄を含む黄銅鉱を熱で溶解する。
溶けだした1230℃の銅精鉱はハ(カワ)と゚(カラミ=スラグ)からなる。
転炉ではカラミに珪石を加えて鉄分を酸化させて不要部分のカラミを分離する。
これは鉱滓(こうさい)として廃棄されていたが、
銅成分を3〜5%含むものだった。
この大量に発生するカラミは再利用され、
形を整えた上でからみ煉瓦などとして土木構造物に流用されることとなった。
銅鉱山の近隣にこのからみ煉瓦による建築物や橋台などが多いことが
一つの特色となっている。
更に廃道を藪漕ぎして進む。
採掘は露頭から斜坑を開削し、内部の立坑は45mの深さがあった。
地下20mと44mに二坑道があり、通気用の横風坑が地下14mにあったという。
横風坑から20m坑に目抜きを堀り、排気を行った。
排水は蒸気ポンプで行い、坑内の運搬は手押し車、
斜坑は横置双気単胴巻上機で荷揚げした。
これは大正末期から昭和初期にかけての状況で当時は幌内太炭鉱と呼ばれた。
その後、幾度となく再開と休山を繰り返し、
戦後の昭和22年2月、日新鉱業(株)の設立によって再開し、
28年9月に富樫鉱業(株)の経営となり三笠炭鉱と称した。
廃道の奥にも遺構は発見できなかった。
出炭は3,848t/年をピークにトラック輸送で搬出したが、
資料には昭和33年に閉山とある。
戻る