埋もれた専用線
夕張の語源はユーパロペツ、
アイヌ語の鉱泉の湧き出る川に由来する。
昭和35年(1960)には人口が11万6千人とピークを迎える。
いつもの単独行とは異なり、
今回は5名での賑やかな探索だ。
かつての専用線の跡に沿って入山する。
明治42年(1909)に鹿ノ谷〜若鍋坑間の若鍋専用線が敷設された。
距離4.8kmの運炭線、乗客も乗車可能で、
大正3年頃の運賃は片道5銭であった。
南側の三坑が開坑し選炭機が設置されると、
三坑専用線が敷設され、
これは若鍋専用線と接続し鹿ノ谷駅に送炭された。
廃線跡はすでに廃道と化している。
大正15年(1926)10月に夕張鉄道が開通すると、
鹿ノ谷〜若菜辺間は夕張鉄道に譲り渡された。
廃道脇には鋼製の遺構がある。
付近は2部と呼ばれた盆踊り広場や病院のあった地域。
第二立坑付近を目指して更に登る。
更に登ると水の吹き出す鉱泉跡がある。
水流が激しく、
遠くからでも水しぶきの音が聞こえる。
これはかつての日吉温泉の跡。
屋根のある小屋にこのバルブが内蔵されていたが、
すでに小屋は倒壊、鉱泉が噴出し続けている。
吹き出す鉱泉の温度は41〜35℃程度。
若鍋地区の市街地は新旧の2か所があった。
この若鍋沢川沿いの旧市街と若菜辺駅付近の新市街である。
更に登ると第二立坑付近だ。
ガス抜きかフライアッシュ輸送の配管がある。
フライアッシュは微細な炭塵で爆発の危険を避けるため、
旧坑の充填などにも利用される
第二立坑は昭和37年(1962)4月2日完成。
密閉完了したのは昭和50年(1975)5月15日となる。
ここには北部主扇と呼ばれる扇風機があった。
ここには扇風機の台座が残る。
かつては三作軸流扇風機が存在し、
250馬力、風量5,680m3の性能であった。
安全灯室か繰込所の廃墟が残る。
旧市街は昭和5年(1930)の若鍋坑閉山後消滅し、
名称のみが残存している。
新市街は第三坑開坑の大正3年にはすでに街の形を成していたが、
その後、夕張鉄道の開通により大正15年(1926)若菜辺駅が設置されると
大きく発展した。
既に獣道しかない道を進むと、
木製の電柱が残る。
琴平一番坑手前付近だがすでに架線はない。
付近には貯炭槽が残存する。
旧市街はこの若鍋沢川に沿って発達し、雑貨店や荒物屋、そば屋があったという。
若鍋坑では北炭の体制とは異なり、すべての日用品を支給することはなかったそうだ。
川廻しの水路かコンベヤーの通過地点か、
小さなカルバートによる隧道がある。
隧道内部は半分以上が土砂で埋没している。
付近には琴平一番坑、琴平西斜坑、
住吉坑、十二号坑と坑口が犇めいていた。
旧東斜坑を目指して更に登る。
大正5年(1916)発行の『夕張大観』によると、沢沿いの集落には、
新聞店、荒物雑貨屋、魚菜店、菓子店、精肉店などの
若鍋商店街が形成されていたことがわかる。
上流域を目指すと円形のコンクリート施設の廃墟がある。
恐らく粉炭分離用のシックナーか選鉱用の水槽のようだ。
若鍋沢川上流域に配管が朽ちて広がる。
付近には硫化水素臭が立ちこめ、
白濁した湯の華も流れている。
斜面には崩れた穴がある。
旧東斜坑、つまり八坂坑に到達だ。
明治40年(1907)開坑の古い坑口だ。
内部の覆工はレンガ巻きだ。
温泉水を並々と満たした坑口。
圧巻の光景だ。
こちらが封印された実際の坑口となる。
昭和5年(1930)に廃坑、
2024年現在で94年経過している。
炭鉱の繁栄と共に沢沿いに発展した市街地。
それはやがて炭鉱の衰退と共に消滅し
今は藪の中にかすかな痕跡を残すのみとなっている。
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