盗み山の麓
出羽三山は月山・羽黒・湯殿の山々のことで、
室町時代に湯殿山へのルートが開削されるまでは
肘折温泉の葉山が出羽三山の一つとして信仰の対象とされていた。
大正6年には肘折集落より鉱山町である金山に先に電灯が灯った。
当時の鉱山集落の人口は2千数百人程度でその内800名が鉱山勤務、
女性も選鉱作業に従事していたという。
鉱夫の中には役所直轄の者と飯場頭(親分)に随従している者に分かれた。
どちらも作業内容に隔たりが無かったが、賃金は飯場頭の歩合が引き取られるので、
役所直轄を希望する者が多かった。
役所の採用は人物査定が厳しく、実績がないと採用には至らなかった。
鉱滓、つまり製錬後の不要部分の黒い山がある。
鉱夫の住居は『飯場』と呼ばれ、製錬所の背後などに50戸を超える妻帯者用の棟割長屋が建設された。
独身者は大広間を仕切った飯場で共同生活で、余暇のある生活ではなく、必要品は事務所から支給、
あとで給料から差し引かれ、その日の生活に追われるものもあれば貯金ができるものも存在した。
山中の生活であり遊興は肘折温泉に繰り出し、当時は温泉町にバーや飲み屋、料亭などが犇めいていたという。
子弟は肘折小学校に通い、その生徒数の急増のため校舎の増築が間に合わず、
個人宅に一室を間借りして授業を行ったそうだ。
ズリ山にはレールを枕木に固定する犬釘が朽ちている。
鉱夫たちは『救済会』に属し、怪我や病気の際には相当の金銭を送りあう習わしであった。
これは『取り立て』と呼ばれ、
親分子分の友子制度(鉱夫仲間)として『取り立てる』が所以となっていた。
付近には蛇の抜け殻が多数あり、
蛇も2匹程度隠れている。
抜け殻には後利益があるというが、寄生虫の可能性もある。
少し森を進むと選鉱所の跡らしき土台が残る。
鉱山での1日の実働は10時間、米一升が20〜30銭の時代に、
賃金は男工が37〜80銭、女工は18銭程度であった。
銅精錬後に産出する『カラミ』を成型した煉瓦が使われている。
大正7年までの第一次大戦の好況の後、銅価は暴落し大正9年には休山、
大蔵鉱山の諸設備は石川県尾小屋鉱山に転生される。
草に覆われた゚(からみ)による壁。
休山後、荒廃の鉱山跡は第二次大戦の特需により、
住友鉱業(株)がその良質の銅鉱に着目し増産準備をとった。
しかし戦中での人員配置がおぼつかず、実際には期待の成果には至らなかった。
その後、昭和27年10月から東邦亜鉛(株)の所有となり、
大蔵鉱業所として操業される。
昭和29年には選鉱場設置、旧坑の再開発を行うこととなる。
しかし昭和34年5月から鉱量及び品位の下降、
8月には坑内出鉱停止、貯鉱処理を行い閉山と相成る。
当時、従業員130名は資源枯渇という致命的要因のため、
会社側の示した新潟県南越鉱山、長崎県対州鉱山、群馬県安中精錬所等への配置転換に従い、
金山集落を後にすることとなる。
銅を製錬する過去の方法ではハ(カワ)と゚(カラミ=スラグ)が発生、
カワには銅成分が60〜75%含まれこれから粗銅を得る。
カラミにも銅成分を3〜5%含んでいたが当時は鉱滓(こうさい)として廃棄されていた。
この不要部分を型で成形し、ブロックのように固めたものがこのカラミ煉瓦である。
大量に発生する鉱滓の究極のリサイクルである。
近代において製錬法が高度化しカラミの発生は減少している。
大蔵鉱山を囲う出羽三山はかつて神仏習合の権現を祀る修験道の山だった。
白装束で登る、あるいは女人禁制であり、肘折を通る正規ルートで登らなければそれは『盗み山』と呼ばれ、
あくまで家内安全を祈る信仰の登山であった。
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