大蔵鉱山跡 探検: 北の細道 肘折鉱山跡

大蔵鉱山のからみ煉瓦を歩く



山形県大蔵村

 山形県は180の温泉地を有し、その温泉密度は全国第一位だ。
大部分が鄙びた湯治湯の風情を保ち、県内外からの観光客も多い。
ただし現代的な高級志向とは一線を画しており、
温泉の保険的・福祉的開発を奨励する県の体制に向けて
温泉地の近代化のために実情の調査が行われた。

これは1960年代に東北大学が行った湯治客のアンケートと、
1990年当時の保養・療養目的の温泉客800名程度のアンケートを比較するものだ。

住所、湯治の目的、日数、1日の入浴回数、効果などについて調査を行い、
温泉地訪問の傾向を把握するのが目的だ。
その結果、県内来訪者が80%、再訪が多くいわゆる「なじみ客」であること、
1泊遊興型の団体客は少なく、半数が70歳以上であった。
30年前のアンケートと比較すると、高齢化が進む結果となった。

「痛みの軽減」のために訪れる客が多く骨折には肘折、
中風には湯田川などの古来からの伝承が残っている結果となった。
10日以上の長期滞在者は減少、2泊程度が増加、
1日の入浴回数も減少し、効能は十分との回答もあった。
結果的に来訪者の高齢化、常連のリピート、高級感よりも街並みや環境保存の希望が多い内容となった。

肘折温泉は今から約1,200年ほど前に発見、
老僧がかつて肘を骨折、この湯でたちまち完治したという逸話があり、
その後、近隣の農家が疲れを癒す温泉地となったと言われる。


大蔵鉱山はこの肘折温泉の近隣にて、藩政時代(1774〜)に金鉱山として発見、
しかし明治36年(1903)までは休山を経てその後再開発される。
明治40年代には銅鉱山として溶鉱炉が設置され盛況となる。

大正2年(1913)に古口駅までの12.6kmに索道架設、在山人口3,000名となる。
しかし大正7年(1918)までの第一次大戦により銅価暴落が誘発、再び休山を迎えたが、
昭和27年(1952)から東邦亜鉛(株)の所有となり活況となる。
旧坑の再開発、選鉱所の建設等が行われたが、
その後の鉱量枯渇により昭和34年(1959)8月、閉山を迎える。


今回は歴史ある銅鉱山の探索だ。
点在する゚石を見ながら、遺構を訪ねてみたい。

からみ・盗み山・出羽三山・・・



鉱滓
鉱滓





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