戦後の石炭業界

歌志内市は昭和23年(1948)現在、16の炭鉱が存在していた。
人口4万6000人を記録した大きな炭鉱街であったが、
現在人口は2800名を切る状況だ。 歌志内市


歌志内市の鉱区を模式する。
歌志内は山と渓谷に囲まれた狭い谷間に、
市街地が存在する。 歌志内鉱区


市街の北方から入山する。
雪が締まった時期を狙い、
つぼ足でのアタックだ。 アプローチ


しばらく登ると雪原には無数の足跡がある。
エゾシカやキタキツネ、エゾタヌキなどのようだ。
幅広く、ジグザグのがエゾタヌキの足跡だ。 足跡


やがて急角度の開けた路盤が現れる。
これがズリ山頂上へ向かう一直線の輸送路、
いわゆる輸車路と呼ばれる道だ。 輸車路


輸車路は斜面に沿って続く。
かつてはレールが敷設され、
インクラインのような巻上機による鉱車が行きかっていたはずだ。 ズリ山


巻上用のワイヤーを保持するプーリーの遺構がある。
巻上運搬には『コース巻き』と『尾索巻き』がある。
どちらも斜坑やズリ捨てに向かう斜面に配置される。 プーリー


コース巻きは1本の巻綱末端に綱首(コース)が設置され、
巻上機が複数ある複線方式や、
巻上機が1台の単線式がある。 遺構


坂の途中からの巻上も可能で、
設備費や坑道断面も抑えられる利点がある。
下降力が摩擦より必要なため、ある傾斜以上の坂が必要となる。 コース巻き


変わって尾索巻きはエンドレスとも呼ばれ、
複線の両端の滑車に環状のワイヤーを掛け、
クリップと呼ばれるフックで鉱車をワイヤーと接続する。
原動機はループ状の一か所に設置される。 エンドレス


一部、レールも残存する。
かなり頂上付近に接近してきた。
目指す頂上の標高は250m、スタートから140m登ることとなる。 レール


頂上付近にはコンクリート製の遺構が残る。
ズリの貯炭施設のようで、
トロッコで荷揚げされたズリを一時的に保管するローディングホッパーのようだ。 ローディングホッパー


これが冒頭のモノクロ写真の赤矢印部分、
頂上の貯炭施設跡である。
ズリはここからベルトコンベアーで散布されたようだ。 貯炭場


歌志内鉱が住友石炭鉱業(株)の経営で繁栄した時期である
戦後の石炭業界はどのような推移だったのだろう。
昭和25年(1950)〜29年(1954)頃の石炭産業の現況をみてみよう。 遺構


その時期、終戦直後の混乱以降、
国家管理による傾斜生産方式という鉄・肥料・石炭を優先した異常な産業構造過程が終焉し、
いよいよ自由競争の時代に入る。 輸車路


配給面での統制を司る配炭公団は昭和24年に廃止、
価格差補給金などを管理する臨時石炭鉱業管理法も
昭和25年に廃止されるに至った。 雪原


この時期の石炭鉱業はストライキが相次いだことと、
欧米の技術導入が進むこととなったのが特徴だ。
昭和25年6月勃発の朝鮮動乱は重工業と共に石炭鉱業の高需要に貢献する。 遺構


戦後、貯炭が220万tと過剰となり中小炭鉱は縮小体制となる。
ビルド鉱では坑内の機械化による合理化が進む一方、
出炭抑制による炭価崩れが加速することとなる。 施設跡


昭和30年代に入っても好転の兆しはなく、異常渇水による火力発電の活況が一部あったものの、
石炭鉱業合理化臨時措置法などによる重油ボイラー設置制限法が施行、
石炭鉱業の救済策が考慮されるに至る。 廃祉


翌年(昭和31年)には神武景気と呼ばれる空前の需要増が発生、
沈滞した石炭鉱業も増産となる。 鋼材


しかし昭和33年には再び産業界は不況となり、
炭鉱の合理化による増産体制による貯炭増が深刻となる。 RC


当時の機械化はホーベル(金属製の切削刃(ホーベル)を炭壁に沿って往復させて切削)や、
ドラムカッタ(刃(ビット)が付いた円筒形のドラムが高速回転しながら
後方のベルトコンベヤまで積込も行う採炭機械)などの普及が加速した。 廃祉



政府は非能率炭鉱の買い上げ枠を拡大、生産制限の延長も行うこととなる。
実際の合理化の実態は機械化の普及、
立坑による成果とその開削技術の向上であった。 遺構






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