イーハトーヴのヤマ
岩手県は北緯40度線の通る街だ。
このライン上には北京やマドリードがあり、
人が健康で文化的な生活を営む上で最も適している環境の緯度といわれる。
赤金鉱業所の門柱が残る位置からアクセスする。
鉱業所は日本標準作業分類のなかで鉱業法の下、
鉱業権(試掘権と採掘権)の登録を受けた鉱区において、
鉱物の試掘、採掘を行う事業所のことだ。
廃橋を渡る。
対して鉱山は、地中から鉱物を採掘する場所や事業所の総称で、
鉱物の選鉱や製錬などの鉱業活動を行う部分も含まれている。
ここから山中に入る。
当時の坑外図に従って、
14の鉱床のうち黄金坪の鉱区を目指す。
やがて山の斜面に遺構が点在してくる。
採掘の施設というより、
選鉱や送泥充填に関する遺構のようだ。
かなりの口径の可倒管が朽ちている。
可倒管はパイプの間に設置し、振動や軟弱地盤による不等沈下を防止したり、
温度による膨張収縮から配管を守り、また角度をつけて接続できる継手だ。
コンクリート製の基礎が埋まっている。
昭和37年9月時点の人員としては所長以下事務課111名、生産課367名、企画課90名、保安・診療科11名と
合計580名の巨大な組織であった。
鋼管とそれに繋がるボールバルブである。
100AはA呼称と言われるミリメートル系の寸法で外径114.3o。
それはB呼称では4インチのはずだが段違いか3と刻印がある。
タービンポンプが残存する。
配管やポンプが連なる遺構。
これは坑内採掘跡への送泥充填の設備かもしれない。
水槽の廃祉がある。
坑内からの廃水は酸性水や重金属を含むことが多く、
これらの鉱害防止のために旧坑を埋め戻すことが施行されていた。
木造の小屋が残る。
積雪の多い地域ながら、
木製の建屋が辛うじて姿をとどめている。
木造小屋の内部には消防ホースが残る。
ここは保安用の消防設備だったかもしれない。
巨大な平場があり、
鉄骨建ての基礎がある。
建屋は切断して解体したようだ。
鉱石積込に関する設備も残存する。
昭和41/42年 当時の鉱山の状況は、
埋蔵鉱量160万tで主要成分である銅品位は0.59〜0.62%であった。
積込施設の下部にはホッパーが朽ちている。
鉱石を流し規定量を排出すると、
機械式の扉で流出を停止する。
木製の電柱が倒壊している。
碍子も残り、
腕金までもが木製だ。
当時の社宅居住者と通勤者の比率は4:6で
電気、水道、水洗便所を整えた鉱員住宅は、
木造36棟60戸、コンクリート製31棟116戸、アパート3棟、独身寮7棟が用意されていた。
しばらく森を進むと塞がれた坑口がある。
当時の鉱山町にはベッド数12床の内科や外科、
歯科診療所や共同浴場3棟も鉱山付帯設備として準備されていた。
坑口付近には太い配管とゲートバルブがある。
福利厚生施設は供給所や350人収容の映画館、テニスコートに野球場、
私営保育所なども充実していた。
こちらは鋼製の腕金の電柱だ。
柱上変圧器(トランス)や高圧カットアウトも残る。
電力は東北電力から専用の赤金送電線により給電され、
その全長は20.36q、公称6万ボルトの特別高圧で送電された。
変電所には2,000kvAの変圧器3台が設置され、
緊急時に備え150kvA自家用ディーゼル発電所も設備していた。
坑口付近に残る太い配管は、坑内採掘跡への送泥充填のための輸送路だ。
選鉱廃滓を濃度50%の泥状にした上で、
75kwパワーポンプにて32m3/時の送泥を行っていた。
配管は一部で崩れつつ残っている。
送泥実績は月間約6,000tで、
これは廃滓ダム延命のためと、廃坑採跡充填が目的である。
斜面に配置される鋼管。
選鉱後の最終尾鉱は鉱山から600m下流の鉱滓堆積場に流下し、
築堤用の材料と充填用のスライムに分離していた。
副成物として重要な金銀については、
月産2万tの 粗鉱量に対してかなりの含金量であるにもかかわらず、
選鉱における金銀実収率はともに40〜50%にすぎなかった。
別の場所には江刺興業株式会社による赤金鉱業所の記念碑がある。
江刺興業株式会社は昭和47年11月に同和鉱業(株)から、
昭和53年の閉山まで赤金鉱業所の事業を継承している。
そこには『赤金鉱山の歌』という石碑もある。
賢治のイーハトーヴに通じる岩手の鉱山街の志は、
地下資源の開発を通じて東北産業振興の一翼となるべく、
赤金の歌という歌詞の中に刻まれていた。
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