赤金鉱山跡 探検: 北の細道 赤金鉱業所 黄金坪鉱山跡

赤金鉱山でイーハトーヴの詩を聞く



岩手県江刺市

 『イーハトーヴ』とは岩手県出身の宮沢賢治による造語で、心象世界にある理想郷を指す言葉である。

宮沢賢治は37歳という若さでこの世を去ったものの
『注文の多い料理店』や『雨ニモマケズ』、『銀河鉄道の夜』など著名な文学作品が多い。
有名な『雨ニモマケズ』は自ら世に出した作品ではなく彼の死後に、
仕事で使用していたトランクのポケットから見つかった手帳に記載されていたものが
やがて作品として論考されたに過ぎない。

詩人であり童話作家、花巻農学校の教師、星めぐりの歌を作った音楽家と、
実は多方面でその足跡を残している。
そして、もう一つの顔が『石っこ賢さん』と呼ばれた地質調査技師の側面である。

小学生時代から石に興味を持ち、その中の鉱物を調べることに夢中になり、
高校時代には本格的な地質調査に従事、後に教師となり農業指導を行う傍ら、
岩手県内の鉱山標本の採集を継続的に行った。
その後、縁あって東北砕石工場という小岩井農場の酸性土壌の改良のために
石灰微粉を生産する会社から技師として迎え入れられることとなる。

賢治の童話『風の又三郎』、『どんぐりと山猫』『なめとこ山の熊』の舞台となったのは、
岩手県の種山高原、早池峰山付近だが、
彼はこの南西地帯に存在するであろうモリブデン鉱床、つまり黄金坪鉱山周辺の存在を
大正7年(1918)7月時点で英文のメモとして残している。

そして後年の作品『泉ある家』では赤金鉱山のことを『青金鉱山』として登場させ、
貯鉱のことや鉱夫の酔態を描いている。

賢治は岩手周辺の地質調査を行いつつ、自身の作品の中に鉱床についての記述を残していたのである。

赤金鉱山は南部北上山地、江刺市東部に位置し、銅・鉄を主とする代表的な接触交代鉱床だ。
これはマグマが地層や岩石内に入り込んで固まるとき、
そのマグマから供給された物質と周囲の岩石との反応によって生じる鉱床のことだ。

発見は藤原三代時代、徳川時代には南部金山として盛山を極めたといわれる。
明治26年に試掘権設定、日本製鉄会社と称して銑鉄量2,900t/年に達した。
昭和20年からは銅量35t/月の出鉱、昭和30年からは藤田興産(株)の経営となり
300t/日の選鉱施設建設、これは年々拡大し、昭和32年同和鉱業(株)に合併。
銅・タングステン・金・銀・珪石を産出する巨大鉱山であったが昭和53年9月に閉山した。

今回は広い鉱区の中の黄金坪(こがねつぼ)鉱区を探索する。
太い配管が坑口の上を這う、そのダイナミックな様相を見ていただきたい。

選鉱場・送泥充填・宮沢賢治・・・



黄金坪鉱山
黄金坪鉱山





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