水力採掘 夢の跡
もともと砂川町と歌志内町に属していた上砂川地区は、
炭鉱城下町付近と、離れたその支援を受けない市街地の不便さから、
独立運動が高じて上砂川町の誕生に至った。
街のスキー場付近を超える。
付近の石炭層の一部は角度が60〜80°の急傾斜地層となっていたが、
この第二坑は比較的緩傾斜であった。
しばらく進むと南坑坑口が現れる。
大正6年に開坑し、東に1,470m延びる。
内部で第一、第二、第三斜坑が枝分かれする。
砂川炭鉱では昭和39年(1964)から水力採炭法を採用し、
地下900〜1,000mの深部で操業、坑外の貯水池(1万m3)から必要な水を供給しながら、
モニターと呼ばれる噴射装置を用いて採炭を行っていた。
付近には別の坑口もある。
噴射装置は自然圧50kg/cm2から加圧時100kg/cm2nの2段階切換式で、
切羽の状態に応じて稼働、30mの遠隔操作にて有効射程は6mとなっている。
こちらの坑口は14mで閉塞している。
水力採掘で掘削された原炭は水と一緒にトラフ(溝)に入り
坑外に流送される。
煉瓦の覆工は複数の半径の円弧で構成される三芯円アーチのようだ。
排水設備は濃度20%までの固形物の混じった水も吐出できる高揚程のポンプを中心に、
微粉炭の輸送とモニター水の排水を行う。
運転は信号通信設備を各立入に配備して、
坑務所の総括管理装置で扇風機の状況や
各ポンプ、配管、配電設備を管理する近代的な設備であった。
坑口群から離れて道なき山中を進む。
昭和24年の北海道鑛山學會誌 第五巻によると、
三井砂川鉱業所経営能率研究委員会において、
火薬と坑木の節減が提唱されていた。
森の奥には人工的な平場がある。
当時の各鉱は分散し、坑口も多数あり、
統制管理には難があったことから火薬専任局員を配置した。
更に進むと危険庫のような施設が残っている。
火薬使用量管理のために研究専門委員会にて各坑の火薬使用実績を基礎にして、
使用数量の策定を計り、責任割当目標を設定した。
火薬使用量削減のため、
ピックやカッターの使用を強化し、
長壁の切羽構造に適した火薬使用量が模索された。
込物(こめもの)という爆破の際の火薬装薬後の発破孔空間への詰め物も、
砂や粘土などの変化による効果を検証したり、
突孔角度の違いによるクレーターの試験を繰り返し行った。
危険物庫から進むと廃車がある。
赤い車体に、
荷台は雑草で覆われている。
これは昭和46年(1971)頃の2代目トヨエースだ。
トヨペット ライトトラックという名称でデビューしたが、
公募によりトヨタとエースを合体させた名称に変更された。
更に登ると非常に分かりにくいが、
人工的な盛土がある。
恐らく火薬庫を囲う土堤のようだ。
土盛りを超えると小さな火薬庫の発見だ。
もしもの際に爆風が上部へ抜けるように
弱く造られた屋根は既に抜け落ちている。
火薬庫は2棟あるが、
隣の1棟はほぼ崩落している。
やはり壁が重厚だ。
火薬庫の内部は草が茂り、
閉山からでも30年以上、
朽ちた大木が残る。
防爆壁である土堤の通路は簡易な隧道となっている。
火薬庫が2棟以上並ぶ場合、
中間の土堤を兼用する場合は通路を設けてはならないとの規定がある。
こちらの通路は火薬庫と外部を繋ぐ通路なので、
火薬類取締法施行規則に沿った設置となる。
運搬通路の勾配まで規定がある。
こちらが既に倒壊した隣の棟の火工所らしき建屋となる。
火薬と雷管、導火線などは別に保管する規定がある。
火工品とは薬包に工業雷管又は導火管付き雷管などを取り付けたものをいう。
結果的には必要最小限の火薬の使用を検証し、
既定の標準爆薬量の産出表の完成に至ったが、
それから約10年後には水力採掘が主流となることとなる
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