小坂への鉱送
岩手県西和賀町、和賀川を堰き止めた湯田ダム。
昭和40年完成の重力式コンクリートダムである。
堤高89m、堤頂長265mの巨大なダムだ。
ダムの南からアプローチする。
西和賀の中小銅鉱山の鉱物/鉱石販売額の推移をみると、
明治41年(1908)までは全ての鉱山で鉱物販売のみ、
つまり製錬までを自山で行ってからの出荷となっていた。
翌年には草井沢鉱山で1.4%だったものが、大正元年には安久登沢、二双鉱山、
大正2年(1913)には大石、卯根倉、桧沢の各鉱山で鉱石段階の売鉱が増加している。
また、土畑や鷲合森のように当初から製錬所を設置せず、
創業開始時から鉱石での出荷を想定した鉱山もこの時期には現出している。
大正6年(1917)以降はほとんどの鉱山が売鉱形態へと転じ、
時期は前後するものの大正中期にかけて自山製錬を行わない鉱山が増加することとなる。
鉱物販売から鉱石販売(売鉱)に転じた要因、これは三点の主原因があると思われる。
安久登沢坑の積込設備に到達だ。
明治期の鉱業は手作業が中心で機械化とは程遠かった。
しかし電気の普及と共に削岩機をはじめ、欧米からの技術導入によって機械化が進むこととなる。
特に大正6年(1917)からの卯根倉鉱山での操業の機械化は大きく、
「浮遊選鉱法」
砕いた鉱石を水槽内で浮遊試薬を用いて気泡による浮き沈みで分離させる選鉱法
により、従来ズリとして捨てられていた低品位鉱石からの鉱物採集を可能とした。
これは機械化による技術革新により、選鉱鉱石中の鉱物含有率が高まり出鉱量が大幅に高まる結果となった。
山地に囲まれ市街地から隔絶された多くの鉱山事業所は他地域との境界部に峠などの交通上の障害が存在していた。
また冬季の豪雪などにより、その長期にわたる積雪期間も交通障害の一端となっていた。
輸送・運搬に関しては市場までの距離そして重量と品位、
利用可能な交通機関に大きく左右される。
積込施設から更に奥へ移動する。
当初は人馬による輸送、その後軽便鉄道の敷設、
難所部分には索道とその鉱石の運搬輸送経路は山元から鉄道駅までの接続がよりスムーズとなっていく。
鋼製の遺構がある。
未製錬の鉱石は付加価値が低く、交通整備が進まない状況では容量がかさみ、
輸送面では不利であったため鉱石を山元で製錬せざるを得ない状況にあったのだ。
荒れたつり橋が辛うじて残っている。
小坂鉱山、そして日立鉱山などの大資本下製錬所は大量生産に伴い、
自山の鉱石のみでは安定供給に支障をきたすようになっていた。
森の中に選鉱施設のような廃祉が残存する。
処理鉱石不足に悩む地方の巨大製錬工場は、
近隣の分散する鉱山からも選鉱後の鉱石を大量に集める必要性があった。
これが『買鉱』である。
木製のホッパーのようだ。
和賀軽便鉄道開通の明治43年(1910)、横黒線開通の大正13年(1924)には
松川鉱山や土畑鉱山から日立鉱山への買鉱が加速、
交通体系の整備との相関性がみられる。
木製のホッパーは上部から鉱石を投入し、
メッシュのスクリーン(網)などを介して粒の大きさを揃えて
下部の排出口から網目のアンダーサイズの鉱石のみを集積する装置のようだ。
浮選装置やアジテータなどは皆無で、
あくまで製錬(鉱物抽出)は行わず選鉱(粒度調整)のみを行う施設のようだ。
コンクリートの劣化が激しい。
銅鉱だけあり、建物の一部は緑青が吹いている。
西和賀の鉱山群の販売物が明治末期から昭和初期にかけて
鉱物(銅)から鉱石(銅を含んだ石)に大きく変化したこととなる。
この主原因は三点あり、一つは機械化(浮遊選鉱の普及)により鉱石の選鉱品位が高まったこと。
そして鉄道と鉱山の接続により交通面での隔絶性が取り除かれたこと。
最後に中小鉱山が大規模製錬所の鉱石供給地という位置づけに変化したこと。
これら要因により、製錬後の鉱物出荷から選鉱後の鉱石売鉱に推移していったのである。
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