風の道程


美唄は北海道中央部、石狩川中流域東岸にある。
地名はアイヌ語の『ピオパイ』に由来し、
これはカラス貝の多いところの意である。 美唄市


時期は4月下旬、
常盤台から北に進む。
道なきルートファインディングが予想される探索は時期が重要となる。 アプローチ


一気に登坂しピークを越えた後は、
地形図上で推論した比較的緩い斜面を下る。
それでもこの角度となる。 登攀


積雪が溶けて雪崩の心配もない時期を選ぶ。
坑外図でポイントした位置を地形図上で予想し、
そこまでのルートは予備も含め3本検討する。 斜面


やがて予想の平場に木々と見間違う遺構が現れる。
推論の排気風洞に到達だ。
コンクリート製の架台のようだ。 遺構


遺跡のような劣化した廃祉だ。
恐らく扇風機や電動機(モーター)を固定する土台だ。
玉砂利の粗悪なコンクリートは昭和30年代の物ではない。 遺構


機械を設置するためのアンカーボルトが埋め込まれている。
コンクリートは本来アルカリ性だが、染み込んだ水分と反応して酸性に変わる。
内部の鉄筋は酸性下で腐食が進み、
膨張することでコンクリートのひび割れを助長する。 アンカー


コンクリートの遺構は3連が並ぶ。
資料では翼直径2.286mのキャベル式扇風機の記載がある。
モーターは120馬力、ここまで電気が来ていたのだ。 架台


キャベル式扇風機は渦巻きケーシングの内部に、
後ろ向き羽根車が装着されたもので、
現在のターボファン型に最も近いタイプだと思われる。 マウスon キャベル式


付近には他にも資材が散乱する。
扇風機本体か周辺の建屋の遺構のようだ。
続く斜面のわずかな平場を利用して設置してある。 鋼材


フランジ付きの配管も残存する。
三菱美唄炭鉱の鉱員数は大正8年に4.831名。
ピークの昭和19年で8,022名、閉山前の昭和41年でも2,002名となっている。 配管



明治30年頃までは国産の扇風機は無く、輸入した海外製品に頼っていた。
大正の初めには輸入機械を手本にした模倣国産品時代、
そして外国の技術提携による製作時代に入る。 資材


もう一か所の風洞予測地点に向かう。
水の無い沢を予想していたが、
雪解けの時期でもあり、水の流れが聞こえる。 斜面


ノースフェイス、つまり北斜面はまだ積雪状態だ。
地形図上では標高差60mを距離230mで下る。
tan-1(60÷230)=14.62度。
限界の平均斜度を22度と想定しているので15度なら何とか下れる計算だ。 北斜面


沢に沿って下ると右岸に穴のような箇所がある。
想定の排気風洞は70mほど斜面上のため、
これは予想外の遺構となる。 坑口


これは紛れもなく坑口。
排気風洞建設のための資材運搬用の坑道か、
もしくはメンテナンス用の人道坑口かもしれない。 坑口


内部は16mで埋没している。
水没面に這っているのはレールでなく配管だ。
もしかすると入気用の添坑道かも知れない。 坑口


酸素濃度は20.9%と問題ない。
この地までの道は無く、排気風洞は坑道内から建設された可能性もあり、
この坑道の素性は断定できない。 酸素濃度


想定の排気風洞に向かって斜面を登る。
途中には水槽のような遺構もあり、
期待が深まる。 水槽


斜面を登攀した先の平場で目的の排気風洞に到達だ。
手前にはアンカーボルトのある土台、
奥には珍しい形の坑口だ。 排気風洞


周囲には鉱車(トロッコ)も残っている。
鉱車の車輪は無く、
水槽など二次的に利用していたのかもしれない。 トロッコ


ドーム型の排気風洞は珍しい。
閉山時にはスクラップ化のために密閉したようだが、
積年の融雪や積雪で破損したようだ。 ドーム


内部は斜坑が続く。
レールもなく運搬用の坑道ではなく、
明らかに風洞である。 石垣



風洞脇には別通路がある。
ここでは恐らくシロッコファンが設備され、
資料では翼直径2.430m、電動機150馬力とある。 添風井


シロッコファンは逆回転させても風向きは変わらない。
万が一の事故の際など、通常の排気から入気に変更する際、
この添坑口の扉を開放して風の回路を変更するのだ。 添坑口


斜坑は足元が悪く、やはり風の通り道である。
しばらく下ると、
最奥は地底湖と化している。 地底湖


坑口を振り返る。
右手には鋼製の支保が積まれている。
暗い風井に日差しが差し込んでいる。 坑口


欠落した坑口の先から扇風機の架台を望む。
排気風洞は坑道に沿って延長されるので、
選炭所や積込ビンとは離れた山中に点在することが多い。 風井


推論した位置とかけ離れた場所ではなかったことで、
今回は無事到達することができた。
毎回このようにはいかないのが探索である。 鉱車







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排気風井
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