小判700枚の金山
まずは阿仁川沿いの萱草鉱山の探索だ
萱草鉱山の最初の開発は寛文12年(1672)と、
かなりの歴史がある。
杉に埋もれたRC製の遺構が残る。
戦国時代に銀山として発展した阿仁鉱山で、
金が発見されたのは秋田藩の時代(1602〜1831)である。
古レールを利用した土留めのような遺構もある。
当初、金山の発見とその運上金(税金)が700両と破格の規模だったため、
【阿仁のゴールドラッシュ】と言われる状態だった。
大規模金山の現出により、
阿仁では新たに銀山町を分割し、
やがて1万人規模の入植者が集まることとなる。
鉱水の流れる一角がある。
ところがゴールドラッシュはわずか1年で衰退、
そこで秋田藩は休山していた銀山を再興、金山と平行採掘した。
鉱水は地面の底から湧出、ここは坑口の跡かもしれない。
1630年代に入ると幕府は国内の銀の流通を維持するべく輸出を禁止、
代わって海外との交易品が銅となる。
湧き出す鉱水は下流のこの円形の水槽に流れ込む。
交易品の銅は御用銅と呼ばれ、各地の銅山開発が加速、
萱草銅山もそんな中、開発が進行した。
更に上流域にはコンクリート製の巨大遺構が眠る。
これは昭和30年代から栄えた佐山鉱山の堆積場跡のようだ。
昭和39年(1964)に閉山した銅山の痕跡だ。
秋田藩による銅山開発は1700年代前半に隆盛を極めるが、
明治時代に突入する1875年には大きく衰退、
冒頭のメッゲルによる近代化が推し進められることとなる。
場所を移動、大正3年(1914)建設の小沢選鉱場へ向かう。
メッゲルの改革の骨格は、
経営・選鉱・輸送の効率化であった。
すぐに選鉱場の遺構に到達する。
選鉱場では目的の金属鉱物と不要な脈石に分離するのが目的だ。
まずは掘り出した粗鉱を細かく粉砕する。
浮遊選鉱は水に濡れやすい鉱物とそうでない鉱物を、
水槽内の気泡と共に浮かび上がらせたり沈めたりして、
分離する方法だ。
この浮遊選鉱法は大正10年(1921)に発明され、
それまで選鉱が困難だった低品位銅が効率的に分離可能となり
精鉱の選鉱量は格段に増加することとなる。
メッゲルの改革が行われたのは浮遊選鉱の発見される50年前となる。
当時の選鉱法は黄銅鉱を長時間焼いて硫黄分を除去、
溶鉱炉で溶解し銅とシリカに分離したものを再び溶かして固めるものだった。
メッゲルはまず請負制を廃止し、
技術的能力のある役人が鉱山経営を掌握するシステムを構築、
事務官と技術官に適切な権限を与え、請負人の裁量に負う部分を無くした。
選鉱においては圧塊機(クラッシャー)や搗鉱機(ミル)を用いて鉱石を粉砕。
分級(粒子の大きさを揃える)した鉱石を、
振動テーブルによる比重選鉱で分離した。
輸送に関してもそれまで分割されていた各坑道を通洞で接続し、
輸送坑道として軌道を敷設、水無製錬所に集約することとした。
また牛馬による輸送を廃止し、貨車による輸送に変革した。
ボールミル用の鋼球である。
操業方法についても変更を行い、
鉱夫の労働形態、坑内輸送、通気に関しても提言している。
鉱夫は4〜5時間/日労働で1〜2週間で現場を変更していたがこれを廃止。
坑内立坑による輸送、隣坑道との接続による通気改善、
灯火用の篠竹の廃止、人力排水の機械化なども推し進めた。
焼鉱のための鉱石比1.4倍の木炭使用量の低減。
硫化銅は自ら燃焼するため、鉱石比26%の木炭とした。
精銅に不純物が多かったのは過度な焼鉱だと結論づけた。
坑道の開削への削岩機の導入や、
ダイナマイトによる発破作業、坑内の軌道敷設と
鍛冶場を設定し現地で鉄機器を製造する体制も整えた。
馬車道の敷設や現地石炭の使用、
釜石からの鉄材を利用しての機器の自社製造、
県に働きかけ鉱石運搬道の開発も即した。
目標は改革3年後の銅の生産量1,500tを掲げたが、
現実には10年後に1,000tを超える結果となった。
しかしながら阿仁においてのメッゲルの功績は多大だと評価されている。
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