阿仁鉱山跡 探検: 北の細道 阿仁鉱山跡

阿仁鉱山でメッゲルの夢に逢う



秋田県秋田市

  メッゲルはドイツのフライベルク鉱山大学を卒業後、30代前半で鉱山管理官の資格を取得した優等技術者だ。
明治11年(1871)にメッゲルは駐日ドイツ全権公使から阿仁鉱山の改革を依頼される。
当時の阿仁鉱山の旧式の制度や採掘法を革新し、3年間で生産量を4倍にする計画を施行した。

阿仁鉱山に来山したメッゲルは鉱山の現状を把握するべく、まず7か月間で『阿仁鉱山報告書』をまとめ上げた。
その中で一番の問題だと指摘したことは、『請負制』と『未熟な選鉱法』である。

江戸時代から長らく続く請負制は、鉱山を管轄する役人が採掘権のある請負主から鉱石を買うことで成立してきた。
つまり採掘に関する技術やノウハウは請負主側にあり、
役人は商流の運用方法を把握をしているに過ぎず、いわば採掘へのアプローチは丸投げの状態だった。

また選鉱においては鉱石中の銅の品位が3%以下の場合は選鉱しないというのがそれまでの定石であった。
それは当時の選鉱(洗鉱)技術の低さによる結果であり、採掘した鉱石の実に3/4が廃石と化している状態だった。


阿仁鉱山は延慶2年(1309)に金山として開山し、やがて銀・銅を産出するようになった。
享保元年(1716)には産銅額が日本一となり、
四国の別子銅山、秋田県鹿角市の尾去沢鉱山と共に日本三大銅山となった。

阿仁鉱山は六銅山と二銀山、製錬所の総称で明治18年(1885)に民営化された際には、
所員260名、使役人2,200名など合計約3,000名の雇用者を抱えていた。

しかし明治時代に発明された浮遊選鉱法により、海外での低品位大規模鉱山の開発が進み、
日本の銅山は世界の市場から脱落することとなる。
昭和に入って再び金山としての復活を遂げた阿仁鉱山であったが、
昭和54年(1979)には鉱床枯渇と銅価格低下を起因として閉山を迎える。


今回は600年以上の歴史を持つ東北地方の鉱山跡の探索だ。
鉱区は広く、その中でも南部に位置する萱草鉱山と小沢選鉱場を中心に
現地探索と共にメッゲルの功績を確認したいと思う。



コンディショナー・メッゲル・浮遊選鉱・・・




鉱水
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