村営水道の一番槍
今は静かな万字市街地である。
昭和51年(1976)の炭鉱閉山前は約5,000人の人口があった。
最近では田舎暮らしを目指す移住者が入居しているそうだ。
街の外れからアプローチする。
街の標高は220m、堰堤は240mと高低差は少ないが
290mの尾根を越える必要がある。
付近には朽ちた金属製の鳥居が残る。
これは明治41年(1908)に建立された万字炭山神社の跡だ。
現在は廃墟と化しているが万字炭鉱時代の守り神だ。
尾根を越えるとポンネベツ川は遥か下となる。
足がすくむ状態ならこれは下らない方がいい。
登れるかを考慮しながらゆっくり下る。
ポンネベツ川右岸へ下る。
万字市街に大正3年(1914)、万字駅が開設されたとき、
機関車用水を市街地裏手の沢の上流を堰き止めて、鉄管で引水したが、
それは一般住民の利用には至らなかった。
斜面には擁壁と共に土台のような遺構がある。
昭和15年(1940)に万字に水道が敷設されるまでは、
非常に不自由な給水状況であり、その上衛生上も思わしくなかった。
これは堰堤からの簡易水道にかかわる配管の一部のようだ。
鋳鉄管の振動や曲がりを吸収する耐震継手が用いられている。
水流による脈動によって、管が暴れるときもあるのだろう。
マウスon 耐震継手
これはエルボと呼ばれる角度付き水道配水用管継手だ。
『100』は呼び口径 100Aで4インチ、つまり外径114.3o、
『22 1/2』はその曲がり角度22度30分である。
マウスon 水道配水用管継手
堰堤からの送水パイプが谷を跨ぐための簡易な水道橋だ。
水道管路の橋、
それにしても強度は心もとない感じだ。
万字炭鉱開坑当時は谷間の湧水やポンキ別沢の渓流水、
または一号長屋(後の郵便局)の井戸水などを利用していたが、
人口の増加に伴い、中学校付近の沢(ポンネベツ川)を堰き止めて利用した。
上流へ向かうと12月ならではの光景、
滝の飛沫が掛かる枝に育つしぶき氷だ。
溶けて凍ってを繰り返す。
朽ちた配管が上流へ向かう。
近隣の美流渡炭鉱においては開坑当時から数年間は、
後の保育所前にある唯一の井戸を利用していたが、
水汲みと運搬は主婦と子供の仕事であり、それは大変重労働であった。
ようやく視界に堰堤を捉えた。
美流渡市街地においては付近の小沢に深井戸を設けたり、
掘抜井戸と呼ばれる、汚染や干ばつに遇いにくい深い滞水層まで掘った井戸を使用した。
ただし粘土層の地質は掘抜井戸に適さず、水道の敷設が切望された。
ようやく万字堰堤に到達だ。
堰堤の形式は重力式コンクリート造、
堰堤高さ10.86m、堰堤延長60m(横幅)。
堤体はかなり劣化している。
導流壁も一部欠損している。
手前の配水バルブは新しいようだ。
万字堰堤の竣工年は昭和15年(1940)、
1日の最大取水量は150m3/日、総有効貯水量34,000m3、
堰堤の廃止は平成14年度(2002)である。
堤体の下には制水弁がある。
これは堰堤内の排砂(はいさ)用のバルブのようだ。
排砂は水流が土砂を運ぶ力(掃流力)を利用し、
貯水池底にたまった土砂をダム下流へ排出させることだ。
制水弁の下部には鋳鋼製の仕切弁がある。
排砂(フラッシング)に対して土砂流入が多い洪水期に貯水位を低位に維持して、
流入してくる土砂を通過させる方法を通砂(スルーシング)と呼ぶ。
マウスon 水道配水用管継手
今は洪水吐を超えて、ポンネベツ川の水流がある。
ダムと堰堤の大きな違い、ダムは「河川法」を適用するが、堰堤には「砂防法」が適用される。
堰堤は貯水ではなく土砂災害防止を目的としているからである。
制水バルブの上方には取水塔がある。
堰堤の所有者は昭和51年(1976)3月25日までが万字炭鉱(株)(北海道炭砿汽船(株))であり、
閉山後の昭和51年8月4日、栗沢町に水利権が譲渡された。
堰堤が廃止された理由はポンネベツ川の濁水が影響し、
下流の緩速ろ過施設での浄水作業が困難となったためだ。
実際に断水等が発生し、桂沢水道事業団よりの受水に変更することとなった。
取水塔は、ダムに貯めた水を取水するための施設だ。
貯水池には並々と水が満たされている。
取水塔への通路は既に朽ち果てている。
取水塔内部には3つのスピンドル(回転軸)式開閉台がある。
直接開閉できない下部のゲートを、中間軸で延長した上部のハンドルを回すことで開閉、
必要な用水を取水するのである。
開閉台が三か所あるのには理由がある。
開閉台に繋がる取水ゲートの位置が図のように浅/中/深の三か所となる。
水位により表面の汚濁した水を避ける場合に三か所から選択して取水することができるのである。
その他の用途として、例えば水温は底が冷たく表面が温かい。
農業用水の場合は浅いゲートから暖かい水を取水することができる。
これは『選択取水』と呼ばれる。
炭鉱水道の発展は目覚ましく、
万字鉱において、大正年間に早くも村営の水道施設を実現したことは、
道内町村ではまず見られない快挙であった。
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