大幌内礦の夢


三笠市は北海道の石炭と鉄道の発祥の地として栄えた歴史があり、
「エゾミカサリュウ」「アンモナイト」など多くの化石を産出する、
地質学的にも重要な地域と言われている。 三笠市街


幌内坑で露頭が発見された明治元年(1867)当時、
この黒い露頭が何物かわからず、明治2年(1868)になってからこの断片を島松駅の猟師が石炭だと悟り、
ようやく明治6年(1873)より炭層の位置や埋蔵量の調査が行われた。 アプローチ


これは大正5年まで主流であった蒸気ボイラーの煙突だ。
明治期の炭鉱では捲揚機(まきあげき)、喞筒(そくとう=ポンプ)などは
全て蒸気機関で駆動していたのだ。 ボイラー


ボイラー煙突の基礎部分は崩れている。

明治10年12月には幌内炭山開採意見書に基づき、
幌内鉄道の敷設と幌内炭鉱の開坑が正式に決定する。 ボイラー煙突


付近の精密調査後、明治12年に音羽坑大坑道の開墾、
官業(国の業務)として採炭が開始され、
明治22年から北海道炭礦鉄道(株)の創立と共に拂下(はらいさげ)られた。 遺構


付近には坑口の成れの果ての遺構も残る。

幌内坑の位置は当時の幾春別線三笠駅から分岐する
幌内線の終点に位置している。 坑口


他にも通気用と思われる坑口が点在する。

布引坑の海抜は127m、養老坑117m
東西は狭く北方に抜けた鉱区となる。 坑口


更に山深くに進む。

養老竪坑は明治32年11月に水準以下91mまで開墾された。
坑口から9.1mはレンガ巻き、以下は松の角材が使用された。 探索


滝ノ沢坑付近に残存するプロペラの様な鋼製遺構、
これはチャンピオン式の扇風機の羽根部位だ。
恐らく明治期の遺構である。 チャンピオン式


チャンピオン式扇風機は1880年代に開発され、
この後ろ向き変形型羽根車を使用し、
排風、送風とも可能な構造であった。 マウスon チャンピオン式扇風機



当時の日本の炭鉱では輸入されたものが使用されたが、
効率が悪く、高圧も維持できなかったため、
やがて輸入されなくなった。 擁壁


更に奥の平場に辛うじて残る、滝ノ沢坑の跡である。
滝ノ沢坑は明治34年上期、
蒸気を原動力とする捲揚機を設置し、採炭を開始した。 滝ノ沢坑


苔むした遺構は続く。
滝ノ沢坑の捲揚機は『ウオーカーブラザー会社製』複胴式で、
原動機の気筒径は406o、その後の廃止された年月は不明である。 滝ノ沢坑


完成した養老坑は坑道広さ 縦4.5m×横3.3m、深さ203m、
竪坑櫓は木造製、捲揚機は蒸気力による200馬力複胴式で、
捲綱は272m、ケージ(1×1.62×3.15m、0.9t)は1階建てトロッコ2車積み、日産500tであった。 滝ノ沢坑


巻上部分には1時間の捲揚容量最大50回をクリアするために、
安全装置として過捲(巻き過ぎ)に対しての、
デタッチング(取り外し式)フックが採用された。 滝ノ沢坑


草生した遺構が点在する。
大正5年には蒸気機関を廃止し原動を電力に変更、
馬力も300馬力に変更された。 滝ノ沢坑


蒸気から電力に変更後の捲揚機仕様は以下となる。
日立製作所製、復胴式、捲胴径 2.134m、捲揚げ速度197m/分、鋼索径φ32o
ケージ容量2.6t、搭乗人員12名
昭和32年に廃止された。 滝ノ沢坑


明治期の遺構、いつもの昭和期の遺構とは一線を一線を画する。
排水設備は80馬力から225馬力のタービンポンプが4台、
毎分0.849〜1.416m3の揚水量であった。 滝ノ沢坑


資料によると通気に関しては直径2,438oのチャンピオン式の扇風機を、
200馬力の電動原動機で駆動、
風量は毎分1,416m3であった。 扇風機


これは養老竪坑の貴重な図面である。
「板張」、「松材」、「雑木」と木造の痕跡が顕著にみえる。
資料は北炭会 いたや氏より頂いた。 養老坑


場所を移動すると、

またもや通気用と思われる坑口がある。
更に高度を上げる。 坑口


オーストラリア人のW.Rヒュームによって発明された、
遠心力を用いて製造する『ヒューム管』の朽ちた沢を登る。
残雪の斜面だ。 沢登り


更に登ると巨大遺構、チャンピオン式扇風機の跡だ。

付近も滝ノ沢坑で東西に分かれていたという。
明治時代の痕跡だ。 展望


那智竪坑(第二竪坑)は明治43年2月に着手、45年開墾完成。
大正2年には蒸気式捲揚機の据え付けに着手、
250馬力復胴式、捲胴径 2.134m、鋼索径φ32oであった。 那智竪坑


櫓は木造であったが大正3年に完成、
その後電動化されたが、昭和3年3月に捲揚機を搬出、
排気立坑としての機能を果たしたが、昭和24年廃止された。 那智坑


蒸気機関の原動はランカシャーボイラーという丸ボイラーが設置された。
明治34年には3基、大正4年には滝ノ沢、竪坑、選炭場、
本坑に5基が設置されるに至った。 那智


ランカシャーボイラーは炉筒ボイラーと呼ばれるもので、
横倒しにした径の大きなドラム(円筒水缶)の中に炉筒という小缶を設置、
内部に火格子燃焼装置(石炭を通常の粒形のまま燃焼)を設けて、
円筒水缶内の水を温め、蒸気を発生させる。
(写真提供は【つきあかりBASEキャンプ 車中泊キャンパー】様) ランカシャーボイラー


燃焼ガスは炉筒を出てからドラム外側の煉瓦積み煙道を通りつつ、
ドラムを外側からも加熱するようになっている。
燃焼用の炉筒が1本の物をコルニッシュ・ボイラーといい、
2本の物をランカシャー・ボイラーという。 チャンピオン式扇風機


熱効率が悪く、現在では使用されないが、
昭和3年当時までは幌内坑では主力の動力源であり、
電動化が進んだのは昭和13年頃からとなる。 扇風機


大正11年、布引坑の堀下工事は一時中断、
音羽、那智、養老の三坑で稼行していた。
主力の養老坑は那智の旧坑を通過していた。 チャンピオン式


そこで故障が頻発、採炭現場まで距離があるので、
新たな竪坑計画が立てられたものの、予算が割り当てられず、
内密に那智坑を掘り下げたという。 チャンピオン式扇風機


このレンガの遺構は竪坑を支えるバックステー(脚部)【マウスon】の土台部分だ。

那智坑の、しかも最後の仕上げ時に明るみに出して、予算の確保を予定していたが、
ある時期で頓挫し採掘の残骸を坑内奥深くに残す結果となった。
しかしこのことが後日、常盤坑の採掘動機の一つとなる。 マウスon バックステー


元々布引坑は養老・那智の排気風洞として1本だけ掘削する予定であったが、
好況時代が後押しし、入気/排気を同時掘削する予定となった。
ところが再び不況の波により竪坑計画は先延ばしされる。 バックステー


同時掘削されなかった布引坑、
このタイムラグにより新幌内坑との合併問題が発生、
大幌内坑とはならずにお互い平行線で発展することとなった。 排気立坑


今回紹介の炭鉱は明治期の機構のため
立坑→竪坑、巻上機→捲揚機と表記した。

また上流域から滝ノ沢西三番と東三番坑が並び、
その下に第二竪坑(那智坑)、その下流に第一竪坑(養老坑)が存在、
明確な位置については完全解明できていない。





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チャンピオン式扇風機
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