謎の坑道


浅野雨竜鉱業所選炭所付近を進む。
最初の鉱区の中心部はダム湖から東に1qほどの、
東本坑となる。 アプローチ


水準坑である東本坑のさらに奥には補助坑として中切坑が三か所あり、
坑外斜道により東本坑と連絡していた。
これは昭和5年当時の状況だ。 選炭場


坑外図は昭和8年(1933)のもので滝之澤にそってインクラインが伸びている。
(マウスon)の地形図は昭和45年(1970)のものでインクラインの位置は大きく南下している。
留萌鉄道(株)時代は東本坑(赤ライン)、古河鉱業(株)時代は更に南東の鉱区を採掘したことがわかる。 マウスon 昭和45年3月


さらに古い昭和6年測の地形図、
つまり浅野同族(株)時代にインクラインは存在せず、
敷設されたばかりの留萌鉄道のみが記載されている。 昭和6年


選炭場に送られた原炭は 「クリーパー」 チェーンに取り付けた爪を鉱車などの車軸にひっかけて、鉱車を短距離移動させる装置 により引き上げられ、 「チップラー」 鉱車(炭車)の積載物を荷下ろしするために、鉱車(炭車)ごと転回させる装置 によって原炭を排出、
スクリーン(ふるい)の上で塊・小塊・粉炭に分別する。 選炭施設


塊炭は粉砕機で細かく処理し、
小塊炭・粉炭はそれぞれ個別のコンベヤーにより、
水洗粗炭槽に送り、 「バウム式水洗機」 空気室から水面に空気を断続的にあてて波を起こし、その比重差で石炭を選り分ける装置 によって各々精炭・選別される。 選炭場


少し離れた場所に残るベルト斜坑の跡だ。
選炭後の小塊炭は水切り後、沈殿槽に貯炭、
水洗粉炭は水桶で流し、これも水切り後貯炭される。 ベルト斜坑


ブロック造りの小さな小屋がある。
選炭所からも離れており、
住居の関係でもなさそうだ。 小屋


小屋内部にはレールが残る。
恐らく留萌鉄道とは別のインクラインに伴う、
貨車の整備用などの施設かもしれない。 レール


選炭場から進む。
既に道は無く、
方向は確認しながら歩きやすい場所を探す。


途中には朽ちた電柱が倒れている。
この付近も大きな街だったのだ。
通り過ぎることが無いようにGPSを確認しながら進む。 電柱


再び目的の電車庫に到達だ。
1階部分はダムの建設と共に、
埋没したようだ。 電車庫


使用炭車数は300両にのぼり、
構内運搬用の充填車70両、材料車15両と
坑口と選炭場を結ぶ運炭軌道が存在したのだ。 遺構


外面の劣化は激しく、
度重なる積雪と融雪で酷く倒壊している。
それでも窓枠や屋根のアーチが立派に残る。 電車庫


特徴的なのは屋根のアーチ形状。
強度と大空間を確保できることが最大のメリットだが、
工場として天井高の確保が目的だったのだろう。 アーチ


ただし鉄筋が横方向に設置してあり、
それは屋根から吊るされている。
これは設備や電気の関係で重要な意味がありそうだ。 鉄筋


付近に存在した工作場は旋盤やボール盤が配置され、
坑内外機器の製作修理を請け負った記録があり、
恐らくインクラインや機関車の整備も請け負ったのだろう。 廃墟


資料には坑口から選炭場までの電車の記録があり、
それは直流単線有線式で27馬力、重量4t、電圧600V、
速度は6Km、日立製作所製であった。 炭鉱跡


電車庫からさらに遡った斜面で、
不思議な坑口の発見だ。
鉱区からは離れた地点・・・。 斜面


斜面に開いた穴は自然の洞穴のようにも見えるが、
人工的な雰囲気もある。
街にも近い一角でその存在が謎だ。 坑口


坑道内部は酸素濃度20.9%と問題なく、
少し入坑してみる。
内部はすぐに行き止まりだ。 酸素濃度


坑道内には支保工の成れの果てがあり、
恐らく人工的に掘削された坑道のようだ。
古い時代の食料の貯倉庫であったかもしれない。 支保工






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ベルト斜坑
ベルト斜坑

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