積込装置の廃祉
奈良橋川の廃道から入山する。
やはりブラキストン線を超えた山中は植生がまるで違う。
見慣れた北海道の森とは大きく異なる。
太い杉林を進む。
どうやら植林された一画で、
均等に植林されている。
森の平場には人工物が朽ちている。
どうやら屋根の一部のようだ。
倒壊した鉱山施設のようだ。
その奥にはブロック積みの様な廃祉がある。
こちらも鉱山施設で間違いないだろう。
森に眠る遺構に近づく。
遺構は水槽のようで浴場でないようだ。
昭和33年9月の現地調査では、
選鉱は現地で行われていないと資料にはある。
かつての天然石膏の用途は99%がセメントの凝結遅緩剤として使用されてきた。
石膏鉱山は明治末より開発され、
その企業形態は大部分が小規模な個人経営によるものであった。
しかし戦後はセメント工業の進展に伴い、その需要は3倍以上に拡大し、
輸入に頼ることなく、
安全に国内で自給できる状態であった。
更に廃道を進む。
採鉱は残柱式により、
電動削岩機を使用したと資料にはある。
森を進むとやがて巨大な廃墟が現れる。
どうやら積込施設のようだ。
神殿のようにその巨大な体躯が残る。
斜面の上部から鉱石を流し、
一時的にこのポケットに鉱石を貯留してから、
トラックなどに積み込んだようだ。
日本の石膏鉱山は黒煙鉱床からの成因であり、海外のそれとは異なる。
よって海外の石膏鉱山が大規模な露天掘りであるのに対して、
日本の石膏鉱山は他の金属鉱山同様に坑内採鉱法となっている。
昭和33年9月現在の従業員数は、
職員5名を含めて総計48名。
かなりの規模の鉱山であったことがわかる。
ピークは昭和28年の出鉱量10,750t、
昭和32年は6,892tと、
すべてが秩父セメント(株)への納入となる。
半ば崩れかけた鉱山施設だ。
石膏鉱床には粘土帯がつきもので、
それは安積鉱山の特徴でもあった。
別の場所には苔むした階段が残る。
粘土帯は採鉱、そして選鉱上の大きな難点となり、
円滑な鉱山事業の妨げとなる場合もある。
階段上には架台の様な施設が残っている。
近時は粘土帯の利用研究が進展し、
一部ゴム充填の粉剤として利用価値が広まっている。
石膏鉱床に伴う粘土は緑泥石が多く、これは粒子が非常に細かい。
添加用の粉剤粘土は粒子の微小なことが要求されるため、
これはかえって高効果となる。
この含まれる粘土を水簸または選鉱して利用することができれば、
低品位な石膏鉱床でもセメント増産に伴う利用価値が高まる可能性はあったが、
国内産の石膏はやがて産出量の減少を招いていく。
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