夕張炭鉱第二坑 大新坑 探検: 北の細道 大新坑

夕張炭鉱第二坑で砂壜に登る





北海道夕張市

   北海道の炭鉱においては終戦後特に坑内自然発火が多発した。
そのため昭和21年(1946)に『北海道炭鉱自然発火委員会』が設けられた。
ここでは発生記録の収集、実例の発表、対策の検討が行われ、
当時、調査対象となった自然発火件数は昭和18年〜38年までの248件に及ぶ。

内訳は夕張が4炭鉱で43件、南空知が5炭鉱で45件、北空知が13炭鉱で99件と、
夕張での発生割合が多くみられる。
発生原因の調査によると石炭の化学的性質が要因としてあるものの、
それに炭層、場所、採掘方法、漏風などが複雑に関連し明確な発生原因の特定は困難であった。

発火には匂いや局部温度、天井の湿気など初期兆候があり、
発生場所の事例から残炭の多い払跡、掘進中止部分など要注意箇所の実態が発表された。

自然発火の防止対策としては区画ごとの採炭後密閉を行うこと、
完全採掘、通気量の急激な増減を避けること、そして何より不要坑道の充填密閉が最も重要との結論に至った。

夕張市内には最盛期に24の炭鉱が存在したと言われるが、
その中でも名称が似通った「夕張炭鉱」「新夕張炭鉱」「夕張新炭鉱」について まとめてみたいと思う。

夕張炭鉱を所有するのは言わずと知れた、北海道炭礦汽船株式会社(以下北炭)である。
北炭は私設鉄道条例の適用を受けた鉄道会社でありながら、 幌内炭鉱 の払い下げを受け石炭業を兼営する特異性があった。
北炭はやがて大正期に三井財閥の傘下に入り、 一方、夕張南部では大夕張炭鉱を買収した三菱財閥が鉱区に加わり、
夕張の地域社会はこの二大資本によって形成されてゆく。

北炭夕張炭鉱としての 昭和11年(1936)現在の稼行鉱区は夕張(本坑・丁未・新夕張・角田)
/真谷地/登川/万字(本坑・美流渡)/幌内/空知(歌志内・神威) と広範囲の6坑であった。
当時は北海道石炭産額の36%を占めていた。

各坑口は丁未坑が最上坑/千歳坑/北上坑、新夕張が松島坑/橋立坑、
本坑が石狩坑/天龍坑、そして大新坑となる。

戦後の夕張坑は丁未坑→第一坑、新夕張→第三坑、本坑→第ニ坑となり、
全鉱区数は32と急成長を遂げることとなった。
今回紹介の大新坑は第ニ坑四区に属し、 傾斜生産方式の恩恵で一貫した人口増加も続く。

夕張炭鉱鉱区
夕張炭鉱鉱区

しかしながら夕張炭鉱はエネルギー革命の余波を受け、昭和48年(1973)をもって閉山に至る。

それに対しマウントレースイ付近に存在した夕張炭鉱第三鉱の橋立坑、松島坑、神通坑近隣の鉱区を
昭和38年(1963)に北炭から譲り受ける形で稼行したのが「新夕張炭鉱」である。
こちらは昭和47年(1972)に閉山を迎えている。

一方、炭鉱変遷の後半の昭和45年(1970)10月から開発された「(北炭)夕張新炭鉱」は
年産150万tを目指すビルド鉱であった。
開発区域は清水沢東部から沼ノ沢、真谷地にわたる夕張南部の地域であり、
昭和57年(1982)に閉山している。

夕張新炭鉱鉱区
夕張新炭鉱鉱区

昭和30年(1955)閉山の 大新竪坑については以前レポートした。
今回は選炭場への連絡軌道跡地と周辺の風洞施設、そして充填砂壜施設を尋ねてみたいと思う。

なお今回、はっしー炭鉱(閉山)様及び北炭会様より多数の情報提供を頂きました。
この場をお借りして、お礼申し上げます。

充填砂壜・排気斜坑・坑口神社・・・




排気風洞
排気風洞





トップページへ