豊田炭礦跡 探検: 北の細道 三菱平岸炭鉱

北菱平岸炭鉱の森に眠る白鞘




北海道赤平市

  『一次エネルギー』とは石油、石炭、原子力、天然ガス、水力など 加工を伴わないエネルギーのことで、
これら『一次エネルギー』を加工して得られる 電力や都市ガスなどは『二次エネルギー』と呼ばれる。

現代社会では膨大な一次エネルギーが消費され、 明治26年(1953)の一次エネルギー消費高を100とすると、
大正2年(1913)には300、昭和28年(1953)には1,000、
高度成長期の昭和48年(1973)には6,000にも増加している。
生糸や銅と並び、貴重な国内資源である日本の石炭業は 明治期には製塩用や外国汽船への焚料炭として、
そして大正初めからの工業化の過程で大きくその需要を拡大し、 財閥の資本源として躍進する。

しかし国策と結びついた戦時から、高炭価増産政策の陰で合理化とは程遠く、
コストを下げなくても一括買取や大きな補填をしてもらえるため、
弱小炭鉱であってもその経営が成り立ち、常に合理化を先延ばしする不健全な経営が蔓延る。
戦争ごとの特需、その後は保護の中での経営、そして不況と好景気の繰り返しの中で、
機械化、そして省力化を行わずしても経営が成り立つ環境が、
自らの首を絞める結果となる。

その後のエネルギー革命が進む中、『高炭価』で居座れなくなった石炭業は、
1兆円を超す政府石炭政策費も、国内石炭資源の確保のためではなく、
なだらかな閉山、失業対策に充填されることとなる。

石炭産業が機械化されずに合理化が先送りされた背景には、
鉱区占有を基礎とする市場の中で、銘柄別売買制度に適した生産体系があり、
それは特定な炭層だけを目的とする小規模斜坑方式がメインとなっていたことがある。
例えば3,000種類の銘柄から火力発電用炭に最適な品質を持つ銘柄だけを採掘したい。
そのために目的の炭層だけを掘削するという体制が大規模な機械化を妨げたのである。


今回紹介の北菱平岸炭鉱跡は結論から言って、
大きな遺構には遭遇しなかった。
大正6年(1917)から三菱平岸炭鉱が昭和27年(1952)まで稼行され、
その後、北菱産業(株)に移行、昭和38年(1963)8月に閉山を迎える。

歴史を紐解くと垣間見える、石炭産業の栄枯盛衰と共に
現地確認を行いたいと思う。



土管・遺構・炭主油従・・・



白鞘
白鞘





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