炭鉱街電報電話局跡 探検: 北の細道 電報電話局

電報電話局跡に〒マークの語源から到達する



北海道某所

   現在、日本における携帯電話の合計契約数は2億3720万件を超える。
これは人口に対して188%と恐るべき普及率だ。

携帯電話はトランシーバーなどと異なり、直接相手の携帯と繋がっているわけではない。
建物の屋上やアンテナなどの基地局と接続し、
光ファイバーの有線で繋がったネットワークで交換局を中継し、
相手に近い基地局から再び電波となって通信している。

しかし電話機が発明された明治9年(1876)以降、その接続は固定手動式であった。
電話をとると電話交換手に繋がり、相手の連絡先を口頭で交換手に伝えると、
交換手が電話交換台に電話プラグを差し込むことで、
手動で相手の電話に繋ぐというシステムであった。

これを現在は電話番号による「ステップ・バイ・ステップ」という方式により、
機械的に自動で行っているが、当時は手動だったのだ。
町内ならよいが市街となると、
朝に申し込みをして夕方にやっと繋がる状況もあったようだ。

当時の加入数は197世帯、政府関連や銀行、新聞社、個人では大隈重信など、
特別な機器であったことがうかがえる。

関東大震災以降、大正15年(1926)東京近隣で
直接相手先の電話番号にかける自動式電話が採用され、
しかしそれが全国に普及するのは昭和40年代までの長期戦となる。


明治時代、通信と交通運輸行政つまり郵便、電信、運輸は一つの省庁で総轄していた。
それが逓信省(ていしんしょう)で、
明治20年(1887)に制定された郵便マークの『〒』は
逓信省(ていしんしょう)の頭文字『テ』を図案化したものである。

今回はさる炭鉱街に奇跡的に残った電報電話局の廃墟の探索だ。
逓信省から郵便、電報電話局を調べる中で到達した謎の廃祉。

炭鉱閉山から60年、
棄てられた建物ながら、その歴史には深いクロニクルがあり、
由緒正しい遺構を調査する。




竈・そろばん・金庫・・・



廃祉
廃墟





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