御直山 探検: 北の細道 御直山

Ta鉱山跡で御直山に登る



北海道某所

   徳川幕府(1603〜1867)の鉱山に対する開発意欲は激しく、
罪人を鉱夫として労働させたり、武士に鉱山師としての教育を行い転向させることもあったという。
当時の日本としては、金・銀・銅が外国貿易の唯一の商品だったからだ。

そこで江戸時代には多数の鉱山師が活躍する。
大久保長安は天文14年(1545)武田氏の猿楽師(武士に仕え芸能を担当)の次男として生まれ、
もともと武士の身分ではなかったものの、
武田信玄によって武士に取り立てられ、主に民政を担当していたが、
武田家滅亡後、その才能を認みとめられて徳川家康の家臣となった。
江戸幕府開設後は石見、佐渡、伊豆の金山、銀山の開発に携わりその手腕を発揮した。

長安の鉱山経営方式は鉱山主が経営不振に陥った鉱山に、
奉行所から技術者を派遣して回復させるというもので、
このような奉行所が援助した鉱山を『御直山』(おじきやま)と呼んだ。

一般に金・銀山は「御直山」で、銅山等は「請け山」(個人経営)形態となっていた。
直轄の御直山になると売鉱した金額の40%が奉行所に、
60%が山主の手に入るという配分だった。

長安は資材や食料、商品などの物価高騰を抑えるために公給制度を採用したほか、
鉱石の生産高によっては山主との取り分を相談にて取り決めるという柔軟さを持っていた。

これら手腕を買われて、長安は全国の金・銀鉱山を支配するまでに至り、
家康に収める金・銀は長安の独断で自由に調整できた。
彼はその後病死したとあるが、生前に大量の金・銀を隠匿したと疑われ、
その後、一族がすべて処刑されている。


今回はある鉱山の旧鉱床の探索だ。
実際には突然の立坑やがけ崩れ、
また新旧地形図を熟読してのアプローチが必要となり、到達は困難を極める。
閉山のはるか前に棄てられた遺構群を目指す。




鉱車・堀下・レール・・・



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