幻影索道

道東の音別町は『平成の大合併』により、
北海道では珍しい、釧路市の飛び地として吸収合併された。
街の境界の形がミロのビーナスに似ていることから『北のビーナス』と呼ばれる。 音別


まずは音別川に沿って登る。
道路わきの牧場にはタンチョウが多くいる。
冬期間は茶安別(チャンベツ)から通行止めとなる。 浦島内川


牧場の奥の炭鉱跡地を望む。
坑道は2本、第一坑と二坑が存在し、
どちらも水平坑でそれぞれ200m、680mの掘進距離があったという。 牧場



牧場内は横切らず、脇の廃林道から入山する。
開坑当初の朝日炭坑時代は輸送手段として、
道路の開発遅れから索道を施設しての運炭が計画された。 探索


実際、山元から二俣(チャンベツ)までの索道の完成に至ったが、
試運転の段階で破損し使用不可となったために、
索道利用を断念しトラック輸送に切り替えた経緯がある。 炭鉱跡


しばらく進むと緩やかな起伏の人工的な一角に出た。
昭和16年村民税賦課台帳によると、22名の対象者がおり、
これが当時の就労者数と思われる。 炭鉱跡地


付近には黒々としたズリ山の痕跡がある。
昭和12年からの音別炭鉱時代は長く続かず、
昭和19年の釧路地区炭坑整備要綱により休坑炭坑に指定される。 ズリ山跡


一斗缶が朽ちている。
戦後、音別炭鉱が再開されたのは昭和21年であったが、
昭和23年には坑内火災が発生する。 一斗缶



付近は地すべりの様相で、
ズリを含む土砂が流れた痕跡がある。
流れ出た土石流の上流を目指す。 ズリ


1本の枯れ沢を遡る。
坑内火災の鎮火のために坑内注水消火が行われ、
使用不可となった坑口を棄て、新坑口の開発が行われた。 ズリ山


沢の上流にはレールが埋没している。
資料によると原炭は主要運搬坑道上の炭車に積込み、
人力により坑外選炭場に至るとある。 レール


主要運搬軌道は9s級のレールを使用し、
軌間は510o、炭車容量は0.7m3の木製炭車であった。
文献に残るレールが残存していた。 9s


更に上流には炭層が露出した黒々とした一角がある。
各坑道ともガス発生は少なく、
上部坑道の風井に排気する自然通気法だったという。 坑口


周辺にはエゾシカの骨が散乱している。
坑道内は炭塵も少なく、
照明には三菱型鉱山灯と呼ばれたアセチレン灯が使用されていた。 骨


付近でズリの炭隗が落ちていた。
企業経営がなされた昭和33年には、出炭量9,576t/年との記録がある。
比較として昭和18年の尺別炭鉱では383,000t/年の出炭となる。 炭隗


尾根を越えた平場にはRC製の遺構が残る。
恐らく選炭場の遺構だと思われる。
閉山の昭和38年までにも幾度となく経営危機に陥ったようだ。 選炭所


選炭施設は未だ色濃く残る。
戦後の石炭産業復興政策の渦中で、その炭鉱規模は小さかったにしても、
独立した小炭鉱として維持経営がなされていたことは特筆すべきことだと思う。 廃鉱









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