水温1℃ 浮選機の憂鬱

芦別市は北海道中部、空知川支流芦別川流域の街だ。
人口は諸炭鉱ピーク時の昭和34年 75,000人から現在は15,000人。
芦別とは本来アイヌ語『魚の背びれ』に起因し、それは芦別連峰をさす。 芦別市


西芦別から入山し、かつての三井芦別鉄道の廃線跡を超える。
古い地図で見るとそこは8本の側線があり、
かなりの敷地のヤードだったようだ。 入山


付近にはRC製の遺構があり、これは分析室の一部のようだ。
昭和40年(1965)には総合選炭工場へ統合されたため、
本施設群は廃止後50年以上の経過だ。 分析室


これは下流の選炭工場に粉炭を供給する貯炭槽だ。
ベルトコンベアにて上部から粉炭を投入し、
逆円錐の下部から放出、その後再びコンベヤーで選炭施設に投入される。 原炭ポケット


ポケット再下端の鋼製部分だ。
マグネットによる鉄材のより分けや、粒度の選別がここで行われる。
給炭量の制御を行い、選別性能の向上を目指す 原炭ポケット


すぐ脇には水槽のような一角がある。
これは恐らく浄化シックナーからの選炭循環水と、
薬液の濃度調整槽のようだ。 水槽


こちらは原炭ポケットの上流にある遺構。
沈澱槽のセットリングコーンなど、
廃水処理の施設の一部ではないだろうか。 遺構



ここ第一坑選炭工場は昭和16年(1941)5月の手選機完成より操業開始し、
その後、比重選鉱機である バウム 水洗選炭機3台で稼働した。
容量不足は否めず、その後設備拡充が進められる。 遺跡


古いストーブが朽ちている。
昭和27年(1952)からはFW(ファーレンワルド)型浮選機が2台投入され、
特微粉の回収と安定が図られた。 ストーブ


上流の貯炭槽から繋がる原炭ポケットの跡がある。
選炭工場には主選バウム水選機(80t)2台と、
再選用バウム水選機(80t)1台が設置されていた。 選鉱


バウム水洗選炭は水槽内で原炭を洗浄するとともに、
その選別水槽室と壁一枚で繋がった隣に空気室があり、
ここから圧縮空気を投入する。 外観


圧縮空気は上部のバルブの急激な開閉によって、
水面を押さえつけて、隣室の水面を急上昇させる。
排気時には水面が急激に下がり、その繰り返しで 水槽を脈動させる。 マウスon バウムジグ



原炭ポケット内部である。
水槽内が脈動して水が波打てば、中に投入した原炭がその比重差で分離し、
比重の小さい微粉炭は浮き上がり、比重の重いズリは底部に重なる。 選炭場


消火器置場の表示がある。
バウム水洗選別機は当時、最も主要な選炭装置でありながら、
科学的な基礎研究はあまりなされていなかった。 消火器置場


これは貯炭施設と選炭施設を結ぶベルトコンベアの基台の跡だ。
バウムジグの運動要素は粒子や空気圧、水の脈動などその効果を左右する条件が、
あまりにも多く、個々の実質測定が不可能だったからだ。 コンベア


藪の廃道をGPSに従い300m程度進むと巨大な廃祉がある。
これは4q先の第一坑から揚炭された原炭の一時保管場所、
貯炭槽のようだ。 遺構


選炭場の操業形態は2方/日の2交代勤務で、
当初は全炭層を一括選炭していた。
しかし原料炭に対する完成品の理論上予想量と実質割合に大きな差があった。 貯炭槽


品質のバラツキとその得率向上を目指して、
時間別に炭層ごとの選炭を実施した。
これは1日に5回の器具の切り替えを伴う結果となった。 原炭貯炭槽


つまりこの貯炭槽はその炭層ごとの原炭を、
より分けて貯炭する機能を有していたこととなる。
これは珍しい、必要からの特殊機能の貯炭槽だ。 貯炭槽


結果的に機器切替による時間的なロスは効率と品質安定の妨げとなった。
そこで昭和29年(1954)ベルトコンベアの増設により、
層別選炭を機器切替なしに並行選炭し、原料炭得率の向上、操業時間の短縮が図られた。。 排出口


貯炭槽を背に道なき道を進むと、足元には太いレールが落ちている。
森の奥には電車や蓄電池機関車修理工場が存在し、
そこまでの材料捲軌道が資料にはある。 レール


レールの高さは94oあり、これは22s級のレールとなる。
炭鉱や鉱山にありがちな軽軌道にしてはずいぶん重量級だ。
普段見かける規格は9s級か12s級がほとんどだ。 22s級


軌道跡とは思えない森を進むと隧道が現れた。
材料運搬用軌道として軌間610oの鉄製台車が採用され、
12人乗りの鉄製人車で人員輸送を行い軌条は22s級と資料にもある。 隧道



これは第一坑へ向かう4qの隧道坑口手前にある、
電車修理工場へ向かう材料捲隧道の跡だ。
そこには機械修理、製缶(溶接)工場が集約されていたのだ。 材料捲隧道


西側坑口はかなり上った場所にある。
鉄道の限界勾配は25‰(パーミル)、つまり1,000mで25m登るものでこれは角度的には1.4度である。
  【tan-1(25m÷1000m)≒1.432】
本軌道はそれをはるかに超えた急角度である。 坑口


ここはケーブルカーのようにワイヤ(コース巻き)を介して運転したようだ。
資料では150〜450kwの単動巻上機が使用されたとある。
なるほど単動(単線)ゆえに隧道断面が小さいのである。 材料捲


これは切り株ではなく電柱の跡だ。
こういった遺構も見逃さずに探索は行う。
このような電柱を追うことで目的地に到達できる。 電柱


突然森が開けた一角に出た。
これが各修理工場の存在した地点だ。
痕跡を探して付近を隈なく歩く。 工場街





森の奥に隧道のような不思議な遺構がある。
付近は平地で隧道の存在はおかしい。
これは修理工場の一棟のようだ。 隧道


かまぼこ型の隧道のような廃墟は密閉されていたようで、
しかし一部が崩れている。
厚みのあるRC造で倉庫のような雰囲気もある。 修理工場


廃祉内部にはレールがあり、その軌間は610o、規格はやはり22s級だ。
隧道のようだがレール間に不思議な溝がある。
木造の扉もトンネルにしてはおかしい。 レール


坑口の右手にはボイラーからの熱気を中継するような箱がある。
隧道の高さも坑口部分は高く、
奥で一段低くなっている。 ボイラー


隧道内の壁には『A』『B』『C』とマーキングがなされている。
これは4q先の採掘現場を往復する、電車や蓄電池機関車の修理工場で、
『A』『B』『C』各ピットでそれぞれ修理を行ったのだ。 ピット


レール間の溝はかなり埋まっているが、自動車の修理工場のように、
下部から整備できる深さがあったようだ。
冬季作業用にボイラーでピット内に温風を吹き込んだのかもしれない。 電車修理工場


電車修理工場の対面側坑口である。
炭車、蓄電池機関車、電車修理工場は、それぞれ独立して存在していたようで、
この坑口延長に隣接していたかもしれない。 坑口


電車修理工場の裏手には200A(外形216.3o)程度の太い配管がある。
これは恐らく水路だ。
バウム水洗選炭の水量確保が疑問だったがこれが解答のようだ。 配管


配管の近くにはトラックが朽ちている。
劣化激しく、車種の特定までは至らないが、
520系のダットラのような雰囲気もある。 廃車


配管を追って斜面を更に登坂する。
パイプはビクトリックジョイントで接続され山頂へ向かう。
この起点にあるものは・・・。 配管


斜面をかなり登りきった足元には、御覧の通気管がある。
これは地下に大きなタンクがある証拠だ。
つまり突然の崩落、落下が予想され細心の注意が必要だ。 通気管


山の頂には巨大な廃墟がある。
これは恐らく浄水場、
先ほどの配管へ上水を供給していたのだ。 浄水場


水道は一般には貯水池から浄水場、ポンプにて山頂の配水池に運び、
そこから重力をもって各家庭に供給される。
ここはどうやら浄水場と配水池を兼ね備えた施設のようだ。 配水池


必要な選炭用水は例えば浮選に12.8t/h、沈澱槽のセットリングコーンなどで420t/h、
原炭量10万t/月の選炭工場で補給水290m3/h、循環水1,000m3/hと、
その方式や供給原炭量によって差異があるが大量に必要なことは明白だ。 選炭用水


ここには『油入防爆型電磁式配電函』が残る。
昭和32年(1957)製造の油入遮断器(OCB)機能を持った配電盤だ。
給排水ポンプ設備の制御盤として機能したようだ。 マウスon 銘板


防火管理者、防火責任者などの名札も残る。
おそらくここには人が常駐し、
24時間体制でアナログに制御していたと思われる 。 防火管理者


扉も窓も厳重に封鎖され、内部は伺い知れない。
恐らく分割された水槽や塩素圧力計などが残存していると思われる。
この浄水場は街へというより選炭施設への水道供給を行っていたのだろう。 扉


浮遊選炭機は夏季は順調に稼働していたが、
冬季に水温が低下すると、
操業成績の悪化を招いた。 浄水場


水温が低いと飛沫の発生量が減少し、局部的に大きな泡となる。
飛沫の大きさが乱れて不規則になると、
良質炭までもが浮かび上がらず精炭歩留まりが著しく低下した。 配水池


この対策として浮選剤の使用量増加や浮選時間の延長などを試みたが、
大きな歩留まり改善には至らなかった。
その後たまたま着目した水温の影響が結果を左右していた。 浄水施設


建屋の周囲には濾過砂の袋が散乱している。
浮選用水が6℃の場合は精炭歩留まりは良好で、
1℃に下がると顕著に不具合が出た。 濾過砂


川から直接揚水した浮選用清水は、
選炭用補給水管を通過、分岐して選炭工場に入る。
その温度は外気温に左右される 。 浄水


浄水場周辺には碍子や避雷器が倒れている。
清水の年間温度変化で1℃以下になるのは、
12月から3月の4か月間だ。 避雷器


浄水場の裏手には廃車が残存している。
水温が1℃以下になる冬季間は、
それを加温し選炭結果に影響が出ないよう対策された。 廃車


加温方法は約2m3の蒸気熱湯函内に装置した、約20mの1インチパイプに清水を通過させて24℃まで加温、
選炭機1台に加温水を1/3程度使用することで、
全体の平均温度を6℃に保った。 ダットラ


これは2台とも720系のダットラで、
それぞれシングルキャブ(2人乗り)とダブルキャブ(5人乗り)である。
年式は昭和54年(1979)頃のモデルである。 ダットラ


以前は有料で人や貨物を載せない自家用車はこのダットラのように、
『自家用』の表記が義務付けられていたが、
現在はバスを除いてこの表示義務はなくなった。 レール


今となってはレトロだが当時はトラックとは思えない豪華内装だったようだ。
それまでトラックといえば板バネで車軸が左右連結していたが、
この720ダットラは前輪が左右独立懸架となり、それはRVブームの産物だった。 ダットラ


浄水場から電車修理工場を経由して、
材料捲の軌道跡に沿って下ると、
トロッコの残骸が残る。 炭車


発見した隧道から直線で下るともう1本の材料捲隧道に遭遇した。
在籍人員のピークは4,524名の昭和33年(1958)、
出炭量のピークは167万4千t/年の昭和41(1966)となる。 材料捲隧道


昭和37年(1962)には第一坑と第二坑の深部坑底貫通、
昭和40年(1965)に第二坑芦別立坑が完成しすべてそこから揚炭、
第一立坑は扇風機を据え付け、北部排気立坑とその名も改めた。 材料捲トンネル








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720

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