円蓋のある風景
三笠市は石狩川支流の幾春別川中上流域。
昭和35年(1960)頃からの石炭産業合理化により炭鉱従事者は急減。
今は野菜や米作が中心の のどかな街だ。
まずは弥生盤の沢川の下流域から登る。
藪が寝た10月下旬。
熊鈴や電子笛、ラジオを鳴らして山に入る。
森の入り口にはブロック造の遺構がある。
炭鉱時代よりは新しいトイレのようだ。
付近には生簀のような廃墟もある。
旧ダイナのような廃車体がある。
三角窓や自家用のマークが時代を物語る。
車輛の年式の特定までは至らなかった。
荷台部分を突き破った大木が圧巻だ。
横根太も露出し、
荷台は崩れる寸前だ。
水槽のような遺構もある。
付近にはかつて炭住が犇めいており、
街の諸施設も充実していたという。
更に奥に進むと大きな建屋の廃墟がある。
これは位置的にも浄水場関連の廃祉のようだ。
周辺を探索してみよう。
内部には資材が散乱する。
浄水関連施設は地下にタンクの存在があり、
足元を十分注意して探索する。
ここは配水池のようだ。
浄水場からこの配水池へ一旦水道水は輸送される。
重力で水送するため配水池は高台に建設される。
深夜と日中また、冬季と夏季では水道の使用量が異なる。
それら必要量変化に合わせて、使用する水量を調節するのが目的だ。
地震や緊急時の備蓄水の意味もある。
配水池の上流にも別の水槽がある。
外部からの汚染を防ぐため、
鉄筋コンクリート製で水密性を高める必要がある。
配水池の二次的作業は水質検査だ。
職員が残留塩素とpH値を測定し、
最終的に異常が無いかを確認する。
マウスon
これは塩素圧力計だ。
消毒の為に注入する塩素剤は、水と反応して次亜塩素酸と、
次亜塩素酸イオンという形で水中に溶存している。
塩素濃度は水道法施行規則において規定され、残留塩素濃度が高すぎると、
カルキ臭が強くなり、水道水のおいしさを低下させる。
塩素濃度の低減化、均一化が重要なのである。
また浄水場に近い地域では残留塩素濃度が高く、
遠い地域では低くなるなど、
給水区域内全域で濃度を一定の範囲内に保つコントロールが要求される。
森を進むとどことも架線が繋がらない電柱がある。
ここから奥の炭鉱関連施設へ
電源を供給していたのだ。
現地形図にも道はなく、
ご覧の廃道を進む。
炭鉱が現役の時代は林道があったようだ。
廃道にはレールの遺構がある。
エンドレス、つまりループ状の鉄索を用いて、
運搬用のトロッコを巻上げる装置だ。
この人工的な掘割部分をかつてトロッコが行き交っていたのだ。
コース巻きがドラムにワイヤーロープを巻くことで間欠的にトロッコを運転するのに対し、
エンドレスは全区間に張り巡らされたロープを一定速度で循環運転させる。
そのワイヤーロープにクリップで一時固定した炭車を結び、
連続的に運搬するのがエンドレスだ。
言わばスキー場のリフトと同じ原理だ。
暫く登ると完全に潰れた廃屋がある。
かつては鉱夫住宅580戸を建設し、
無料貸出しを行ったというから驚きだ。
これは炭鉱事務所の一部か、風呂もある。
鉱業所経営の物品供給所が存在し、
安価で生活用品を配給したようだ
黄桜の徳利もある。
修養講和、つまり学問を修めより高い人格形成を行う、
講師を招待してのイベントも月一回開催されたという。
これは支給される供給炭だ。
非常に軽く上質であることがわかる。
炭鉱跡でよく手にするズリとは明らかに比重が異なる。
藪には耕運機の廃車体がある。
井関農機製、280ccの製品だ。
付近には別の炭住街の痕跡もある。
植生の無い空き地が所々に残る。
当時は年一回の従業員慰安運動会が開催され、
家族慰安の行事も催されたという。
ここにもトラックの荷台が朽ちている。
毎年、陸上競技、野球、武道大会が催され、
それは盛大だったそうだ。
ここからは更に道は不明慮となり、
過去の地形図からプロットしたルートに従って登る。
ところどころでマーキングテープを巻ながら進む。
鹿道もない廃道が続く。
事前に国土地理院地形図を熟読しているので、
起伏を回顧しながらトレースする。
100A程度のパイプが道沿いに埋没している。
自然発火防止のためフライアッシュ(石炭灰)を
集塵流送するための配管かもしれない。
大邑崑のオロナミンCの看板が落ちている。
オロナミンCは昭和40年(1965)発売のため、
この看板は昭和34年(1959)の
立坑
完成以降の産物となる
。
やがてスタート地点から1.7q、遺構が現れた。
鉱床図の通洞、および新坑本卸付近だ。
周辺に注意しながら接近してみよう。
遺構は平屋だがかなりの面積を有している。
採掘された石炭は揮発分が多く熱量が高く、
船舶燃料や工場機関用に利用されたという。
これは採掘や選炭の施設ではなく、
排気立坑関連の設備のようだ。
採掘用の通洞斜坑に隣接して建設されたものだ。
建屋の看板には『住友KK』の文字が辛うじて見える。
奔別立坑完成以降は人員の昇降だけが、
弥生坑から行われた時期がある。
建物内部も落ち葉で覆われている。
右手が封鎖された排気坑道で、手前の水槽部にシロッコファンが設置、
奥の白い台座に据え付けられた電動機で駆動したのだろう。
左右対称のこの台座で巨大なシロッコファンの中心軸を受け、
軸を挟むようにアンカーボルトで固定されていたようだ。
騒音が相当なものだったと思われる。
マウスon 軸受
通洞斜坑を入気坑としてこちら側を排気坑に設定、
130馬力の電動機を介して、
レンジフードなどで使用される形状の「シロッコファン」プロペラではなく縦長の細長い板状の羽根が筒状にとりつけられているファンのこと
にて坑道内の空気を吸い出したのだ。
封鎖された排気坑口の側面。
山の斜面に向かい、
恐らくそこから急角度で下っているものと思われる。
排気坑口からも建屋が続く。
採掘坑道を後に吸排気坑道として流用したため、
このように複雑に増築された形跡が残存する。
廃祉に絡む老樹。
昭和の初めには炭鉱青年団が組織され、
武道の増進から軍事思想の普及講演も開催されたらしい。
獣の骨が散乱する小部屋がある。
光が差し込む不思議な一角だ。
奥にはドーム状の設備がある。
これは吸気口の入り口の異物の混入を防ぐネットだ。
鹿の角も残存している。
恐らく外部から吸込まれる危険防止柵だろう。
ファンの排気量は相当なもので、
吸い込まれる危険性もあったのかもしれない。
坑内の火災時などに吸込と排気を逆流させる状況もあったはずだ
軸流式、つまりプロペラではないシロッコファンは逆回転させても風向きは変化しない。
よって逆風にする場合は数枚の扉の組み合わせを変更することで
吐出方向を切り替えることがあり、ここはその機構室の一部だったかもしれない。
機構室の奥には通洞斜坑の坑口が残る。
平均斜度23度、日産570tの採掘坑道であったが、
立坑完成後は人員の昇降のみに利用された。
通洞斜坑と排気坑口の間には、変電設備の建屋が崩れている。
弥生坑の製品は特塊から細粉まで9銘柄に分類され、
高カロリーの面から当時の貯炭式ストーブに重宝されたという。
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