湖畔を眺めて幾星霜


サロマ湖は常呂、湧別、佐呂間町にかかるオホーツク海沿岸の潟湖である。
日本第3の湖であり、面積151.6q2、周囲72q。
湧水による洪水を避けるため、1920年代、人工的に砂洲を開削したのだ。 サロマ湖


計呂地(けろち)市街地から湖畔に沿う道を行く。
かつては、岬の先端に円山キャンプ場が存在したが、
現在は廃止されている。 計呂地


湖畔の平坦な林道は現在車両通行止め。
鉱山跡までは片道1.5qの徒歩となる。
湖畔からは野鳥の声が聞こえる。 廃屋


湖畔の声の主はオオハクチョウでかなりの数がいる。
冬の間は日本で越冬し、やがてシベリアへ帰る。
翼を広げると2mを超えるそうだ。 サロマ湖


計呂地牧場への分岐道を更に進む。
円山は標高160m、
その手前の谷間に鉱山は存在したはずだ。 圓山


ここが鉱山への入り口だ。
写真ではわかりにくいが、
明確にかつての道路の痕跡がある。 廃道


廃道を登るとすぐに、
スレートの遺構がある。
ここは鉱床図によると飯場とされた場所だ。 飯場



飯場とは作業員の休息や宿泊のための施設だ。
昭和24年の鉱区設定後、付近にはトレンチが掘られ、
鉱化帯が発見され、それが鉱山の基点となった。 スレート


ここからは笹薮の廃道を進む。
トレンチとは塹壕(ざんごう)と呼ばれる掘割のことで、
鉱山では過去の活断層や鉱脈を調べるために細長く掘る溝のことである。 廃道


300m程進むと人工的な雰囲気がある。
鉱化帯とはマグマが固まる過程で、
鉱化ガスや熱水によって岩石中に鉱物が生成、鉱床が形成された部分である。 人工


貯鉱場付近の平場には鋼製の箱が残存している。
探鉱用の3坑道は昭和27年(1952)の十勝沖地震により、
内2坑道が崩壊した。 遺構


続く谷の平場に何かある。
鉱床図によると手選場付近だ。
機械的な構造物のようだ。 ミル


等辺山形鋼で組まれた架台の上部に、
ギヤとシャフトがある。
かなり重厚な造りだ。 スタンプ


これは臼と杵で構成される搗鉱機だ。
現物が残存しているのは非常に珍しい。
砕鉱機やスタンプミルとも呼ばれる。 RC


ギヤの部分は電動機に接続され、シャフトが回転、
90°位相して取付けられたカムが、
今は無き杵(鋼製破砕シャフト)を上部に引き上げ落下させる。 カム


落下する鋼製破砕シャフトの自重で下部の鉱石を粉砕するのだ。
5枚のカムが装着されていることから、
杵である鋼製破砕シャフトも5セットあったはずだ。 スタンプミル


機器には銘板が残る。
高橋工業所、福島そして、
1960年(昭和35年)のシリアルだ。 銘板



手選場の奥は第二坑だ。
坑口方向に向かうが、
雪原の足元に何かある。 平場


雪に埋もれるレールの遺構である。
高さは50o程度なので6s級の小規格のものだ。
坑口から手選場までを往来していたのだろう。 レール


更に少し上流には、2条のレールが残る。
地震によって崩壊した坑道を、
昭和29年(1954)に再掘進した。 レール


ここが第2坑の跡地で、坑口は埋没したのか発見できない。
昭和29年(1954)7月には崩壊した堆積物10tを、秋田県の小坂鉱業所に送鉱している。
実際の探鉱は昭和41年頃まで続いたという。 平場


更に上流の第1坑付近も探索したが、坑口の発見には至らない。
本町域は戦前から石油資源開発が予定されていたものの、
鉱脈の深度が深く、現実的ではなかった。 第1坑


所々に平場が残る。
本坑の金・銀の産出は小規模ながら、
わずかな地下資源に希望を馳せる町民は多かったという。 平場






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坑口疑定地
坑口疑定地

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