財閥のインパクト


遠軽町は生田原町、丸瀬布町、白滝村の4町村の合併により、
平成17年に新たな『遠軽町』としてスタートした。
今回は街外れから瀬戸瀬温泉に向かって進む。 瀬戸瀬


瀬戸瀬温泉は市街地から20qの秘湯だ。
昭和31年に林業組合により開湯、
鄙びた温泉は透明で源泉かけ流しだ。 瀬戸瀬温泉


廃屋が目立つ道道を行く。
付近は銅鉛亜鉛鉱床の地質で、
かつて昭和33年には大規模な地質調査が施工された。 廃屋


牧場の中の1本の道に入る。
林道は続いているようだが、
ほとんど利用されていないようだ。 林道


やがて轍も無くなり、ここからは徒歩となる。
目的の鉱山跡までは1.8q。
住友川の左岸を歩く。 林道


やがて林道は無くなり鹿道となる。
地形図上でも道はなく、
単独行のためラジオを鳴らし、道なき道を進む。 鹿道


地形図には沢の記載はないが、
ここから谷に沿って進む。
現在の標高は350m、目指すは440m附近だ。 沢



沢を進むと一気に廃道だ。
地形図では谷の迫ったゴルジュのような地形も想像していたが、
意外と谷は広い。 廃道


水量が1:1で合流する二股の別れだ。
どちらへ進むかは確認が必要だが、
現在地を確認するには絶好の場所だ。 二股


上流域で流れは少ない。
このような場所ではレールが埋没していたり 、
煉瓦の遺構が残存している可能性もあるので注意が必要だ。 河床


目的の沢を暫く登ると人工物が見える。
RC製の躯体かパラペットのようだ。
しかしこの沢に橋台も不自然だ。 遺構


大きさは高さ500o程度で、
フランジ状の段差が付いている。
このコンクリート塊は元々この位置に設置されたものでは無いらしい。 コンクリート


コンクリート片の裏側を見ると、
骨材の中心は玉砂利である。
橋台ではなく、恐らく昭和27年当時の鉱山時代の遺構であろう。 玉砂利


このRC塊はもしや斜面上部から落下してきたものではないだろうか。
斜度はかなりあるものの、
上部に遺構があるのかもしれない。 RC


RC製遺構から一気に斜面を登攀する。
あまりの急角度で、
施設跡の残存も怪しい。 斜面


かなり登ると少しの平場がある。
しかもコンクリート製の遺構がある。
ここは昭和27年(1952)に完成した選鉱場の廃祉だ。 遺構


付近には石垣も残る。
黄銅鉱を含む母岩を粉砕、鉱石部分とケイ酸塩からできている母岩をより分ける。
これが銅鉱の選鉱だ。 石垣



粗悪なコンクリート塊もある。
母岩より鉱石の方が比重が大きく、水中では沈みやすい。
この早く沈む性質を利用するのが比重選鉱だ。 コンクリート


残るRC遺構は紛れもなく選鉱場跡だ。
粉状にした鉱石を水槽に浸し、少量の油分と空気を送り撹拌すると、
鉱物に泡が付着して浮き上がる、これが浮遊選鉱だ。 選鉱所


更に急斜面で高度を稼ぐ。
選鉱後の黄銅鉱にはまだ硫黄などの不純物が多く含まれる。
このため炉で熱を加えると酸化物となった一部不純物が取り除ける。 選鉱


沢に転がる遺構と同様の廃祉がある。
残る不純物は酸化ケイ素や酸化鉄などで、
これは石灰石と化合してスラグと呼ばれる鉱滓(こうさい)として排出する。 廃祉


スラグの下部に溜まる硫化第一銅に転炉で空気を吹き込むと銅が完成する。
銅は延性が高く、銅板、銅管、銅線などに加工がしやすい。
そして何より熱や電気が伝わりやすい。 紅葉


寸切のアンカーボルトも残る。
完成した選鉱場は翌年の昭和28年(1953)に火災で焼失。
わずか1年間の稼働であった。 寸切ボルト


気づくと遡行した沢は遥か下だ。
再び下って坑口の探索に向かう。
4本の坑道総延長は540mに及んだという。 沢


再び少し沢を遡ると1号坑付近。
最も延長は長く200m程度あったようだ。
しかしながら埋没したようで発見には至らない。 1号坑


風景の変わらない沢沿いを歩く。
2号坑付近を過ぎたが、
痕跡さえ判らなかった。 遡行


更に登坂すると鹿道が続く別の沢がある。
残る3号坑と5号坑は沢に対して向き合っているはずだ。
4号坑という名称が存在しないのが如何にも鉱山らしい。 鹿道


両坑口らしき場所も特定には至らなかった。
この沢が注ぐ川の名称は『住友川』。
財閥の影響が未だ河川名にまで及んでいた。 坑口









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