低品位炭錬金術の行方


道北の天塩川、頓別川流域の天北原野は、
泥炭層と湿地帯、そして未開発の原野も多い。
東西8km、南北27km、総面積230平方kmと神奈川県に匹敵する広大な土地だ。 天北原野


曲淵市街地から宇流谷川に沿って登る。
昭和15年(1940)開坑、能率は低く11〜12t/人/月であった。
Y字型に一坑、三坑、二坑が存在していた。 曲淵


旧国鉄天北線 曲淵駅跡である。
天北線は149qに及ぶ長大路線で、
30もの駅が存在した。 藤松沢川


炭住の廃祉が残る。
ピーク時の昭和27年(1952)出炭量は70,800t。
総出炭量は約55万tである。 炭住


石炭液化事業は稚内炭鉱創設以前の昭和11年(1936)には計画的に進行していた経緯がある。
日ソ関係の風雲化と国策から海軍省主体で
北樺太において、液化工業が試験されていた。 炭住街


炭住街の奥にはホッパーのような廃墟が残る。
これは計画された日産60tの乾留装置に原炭を運搬したり、
コーライトやズリを搬出する貯炭装置のようだ。 探索


一連の流れとしては乾留装置で原炭を200〜250℃に加熱後、
ドーソン式瓦斯(=ガス)発生装置にて、
蒸留・精製・ガス排気等を行うのである。 遺構



石炭液化の工程図を添付する。
酸素遮断の元、石炭を加熱すると揮発性不純物がガス化してコークスが残存。
揮発温度の蒸気を冷却すれば目的の成分だけが抽出できるのである。 工程


低品位炭には不純物が多く、
恐らく純粋な高品位炭より、
多数の揮発成分が抽出できたのであろう。 廃祉


宇流谷川に沿って進むと天北線の橋梁が残る。
天北石炭鉱業が繁華だった昭和18年当時 、
その在籍人員は228名にのぼった。 橋梁


更に進むと煉瓦製のコークス炉のような設備がある。
社宅は26棟、戸数107、世帯数149、
人口736名に及んだ。 コークス炉


当時の鉱床図にも記載される名の無い温泉跡地だ。
現在は何もない。
再び下って運炭軌道を追う。 温泉


軌道跡に沿って進む。
結局実現を見るに至らなかった石炭液化事業だが、
工場が稼働し運転が開始されていれば状況はかなり違っていたと思われる。 荒地


植生が戻らない一角もある。
乾留・瓦斯・蒸留工場設置のため、
同鉱は資本金を倍に増資し、施設買収費と機材移送費を確保した。 荒地


奥に進むと植生が戻り鹿道が続く。
銀行の許可や株式払込資金も金融公庫に引き当てを依頼し、
資金繰りのめどは立っていたという。 鹿道


湿地帯のような道なき道を進むと廃祉がある。
この石炭液化事業の大綱は壮大で、
ガス発生装置や軽油・重油・酸性油生成装置、そして乾留装置は40基に及ぶ。 廃墟


儚い夢と消えた製油施設だが、
ガス冷却器や製油鋼製タンク、
製油装置の一部は設備されたようだ。 廃祉


鉱床図に記載された隧道が次のターゲットだ。
藪の中に坑道が残っていることを信じて、
湿地帯の廃道を進む。 (マウスon 鉱床図)


藪を抜けた丘の上から遠望する。
緑の笹薮のベルトが、かつての運炭専用軌道跡だ。
隧道に向けて進む。 軌道跡


専用軌道跡は藪に飲み込まれる。
GPSで推論した隧道までもうすぐだ。
しかしなかなか進まない。 軌道


坑口議定地に到達したが、
埋没したのか残念ながら、
目的の坑口は発見できなかった。 坑口


石炭液化事業はそもそも軍需の要求で着手されたものだ。
しかしながら結果的に戦争の激化によって頓挫した事実は、
非常に皮肉なものだ。 廃墟







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