掘進速度 月間延長75m
札幌から直線で50qの三笠市は、
ピーク時の1/6の人口となってしまったが、
かつては炭鉱で栄え、日本の近代化を支えた街の一つだ。
清住町から藤松沢川を遡る。
実は9月に藪で断念した後の、
11月の再アタックである。
河川名と当初の炭鉱名は『藤松』である。
明治期に藤松氏が炭焼きに入山したことから、
『藤松』という地名になった。
廃墟を超えて進む。
唐松駅より架線電車の敷設と記録にはある。
目的地までは標高差73m、距離1.6qを予定している。
巨大な砂防ダムを巻いて登る。
砂防ダムがあると、その建設道が整備されるが、
ダムを超えると一気に廃道化することが多い。
積雪の下は押された笹薮だ。
夏の終わりのアタックでは、
この付近で撤退した。
(マウスon 9月)
約1q程度で右岸の斜面に遺構が見えた。
付近は事務所跡で、当時は25名程度で稼行したようだ。
鉱床図付近には通洞坑の記載もある。
玉砂利で施工したRC製の遺構が散らばる。
通洞坑にはエンドレス装置が敷設され、
北斜坑と南斜坑が枝分かれしていたようだ。
苔むした廃祉。
当時の日産は220t、
家庭用貯炭式ストーブ用炭として定評があった。
左岸にも巨大な廃祉が見えた。
あれは恐らく選炭所だ。
接近して確認してみよう。
不思議な形状の選炭施設だ。
恐らくこれは選炭後の製品を貯炭する、
600tポケットだ。
坑内から搬出された粗炭は40tポケットに一旦保管される。
その後、ジンマースクリーンに掛けられる。
これは鋼製網状のふるい機で、振動により粒度分けを行う装置だ。
スクリーンで塊として撥ねられた原炭はベルトコンベヤー上で手選、
中塊や粉炭は共盆社式水選機にて精炭後、
再び目の細かいジンマスクリーンにて分類される。
貯炭ポケットの苔むした内部である。
選炭施設の一日の処理能力は700t、貯炭ポケットの容量は600t。
貯炭量より処理能力が高かったことが伺える。
処理能力と操業時間から積算される貯炭量に対し、
出炭量や安全率により、過剰にならない容量の、
原炭ポケットや貯炭庫の容量が計算される。
更に遡ると木が遺構を貫く一角に出る。
諸機械動力は北海道電燈株式会社幾春別変電所より、
3,300Vの供給を受けていた。
丘を越えると白い建物と横長の遺構が見える。
これは風洞とそれに伴う扇風機室のようだ。
唐松時代とは一線を画した雰囲気だ。
これは扇風機の制御を行う機械室のようだ。
ここは
奔別炭鉱
時代の排気立坑施設だ。地底340mの坑道と接続し、
扇風機ファンにより空気を吸いだすのである。
建屋内部に諸設備はなく、
閉山後すべて撤去されたようだ。
高価な機器が設置されていたのかもしれない。
建屋の前には巨大なファンの付いた扇風機が設置されていた土台がある。
その奥には封鎖された坑口だ。
円形なのは風洞の特徴だ。
風洞坑口には危険ガスのペイントがある。
坑内通気系統複雑化に伴い、
鉱床入気温度の上昇が発生、坑内環境の悪化防止が通気の目的だ。
坑口からRを帯びて地下に入る風洞。
通気抵抗や風量、温度・湿度・気圧、
「エンタルピー」(熱含量)物体が内部に貯えている熱量。
発熱して外部に熱を出すとエンタルピーが下がり、
吸熱して外部より熱を受け取るとエンタルピーが上がる
など通気量は多種の条件に左右される。
風洞のR部分が接続しているのが立坑だ。
深さ480m、直径4.6m。
昭和46年(1971)の閉山まで、排気工程を司った。
立坑による近代化と共にその坑道掘削スピードが技術的象徴でもあった。
月間最高延長が60m程度の時代に、
唐松では75m/月という記録を樹立した。
付近にはヒグマの足跡である。
『藤松』から『唐松』への地名の改定は、
財閥の勢威の表れであろうか。
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