モエンタンからの逆襲
牧歌的な風景の続く豊富町郊外。
現在は酪農が基幹産業で乳牛頭数1万6千頭を誇る
。
人口はおよそ3,900人の豊かな自然環境に恵まれた街だ。
豊富温泉から延びるサイクリングロードが、
かつての日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道跡だ。
温泉噴出後、昭和2年(1927)には付近住民向けの温泉が開設された。
その後、大師堂境内に浴場を新築、豊富温泉として開業した。
しかし温泉井から浴場までの300mの配管は度々湯華で固着、
昭和6年(1931)に現在の温泉井付近に浴場を移設した。
温泉から東へ進むとやがて巨大な廃墟が見える。
これは湧出する天然ガスを動力源としたガスタービン発電所の廃祉だ。
(※現在立入禁止です)
当時から付近では各個人でガス井を掘削、自家用に使用していたという。
地表から2.3m掘ると天然ガスが湧出し、
昭和初期の無灯火時代には『マントル』と呼ばれるガス専用ランプが使用されたが、
装置が不完全でしばしば火傷が発生したという。
昭和7年(1932)天塩電燈株式会社が発電計画をたて、
自家ガス井を掘削、35馬力のガスエンジンを使用し、
温泉から東方400mに発電所を建設した。
昭和8年(1933)には豊富温泉から天然ガスを送り、
130馬力のエンジンにて発電、幌延・天塩・遠別まで送電、
これが近隣の電化の嚆矢となったのである。
本遺構は昭和32年(1957)に北電が新設した出力2,000kwの営業用ガスタービン発電所で、
クローズドサイクルと呼ばれる自動制御された装置であった。
老朽化と採算割れにより、約20年間の稼働後廃止されている。
ガスタービン発電は火力発電と同様に蒸気の代替えとして、
燃焼ガスで直接タービンを回す形式と、
本装置のように天然ガスの燃焼熱で圧縮空気を加熱、
その膨張空気力でタービンを回すタイプがある。
燃焼ガスを直接タービンに噴射する方式ではないので、
石炭や重油等、特定の燃料を必要としない特徴がある。
余力の電力は稚内まで送電したというから驚きだ。
下エベコロベツ川に沿って東方へ向かう。
写真では非常に判りにくいが、
日曹炭鉱天塩鉱業所専用鉄道跡の橋脚などが道路沿いに点在している。
暫く移動すると本流付近に広大な荒地が残る。
日曹鉄道は乗客の切符に生命を保証しない旨が記載され、
機関車からの多量の火の粉により、山火事が散発したという。
荒地の奥には給水塔のような遺構が残存する。
昭和13年(1938)には本町付近に第一発電所が完成し、
動力や点灯施設の拡充が行われる。
炭鉱跡地の碑の手前、鉱業所のメインとなる本町一区付近。
昭和14年(1939)にバウム式水洗選炭機が導入されるまで。
品質の低いズリが製品に混入していたという。
記念碑を超えると一坑付近だ。
昭和15年(1940)には第二発電所が完成し、
付近の人口も1,990人と盛況を迎える。
一坑の奥にはズリ山を望むことができる。
やがてこの第一坑が専ら主力坑として栄えるころには、
日曹診療所、新事務所の建設が完了する。
下エベコロベツ川には水選取水用のダムの廃祉が残る。
日曹の石炭は白煙炭と称して黒煙の出ない特徴を持っていたが、
その熱量は低かった。
機関庫や神社も付近に存在した選炭所付近の遺構。
燃えにくいから『モエンタン』と悪評された原因は、
輸送設備不足時の大量の貯炭や選炭不十分だとされた。
新町付近には機関車を転回させる転車台の跡がある。
昭和19年頃(1944)には天北炭田全体の50〜60%の出炭を担い、
戦後の傾斜生産方式での生産奨励が更に躍進を加速させる。
ここからは最奥の三坑目指してのアタックとなる。
戦後の企業整理と共に、付近の18鉱区を保有することになった日曹炭鉱株式会社は、
道内各主要都市に特約店を置き暖房用炭の供給を司る。
中央部の築堤は日曹鉄道から分岐した三坑専用線の跡だ。
第三坑は昭和20年(1945)12月から坑内掘りが施工された。
林道は完全廃道でひたすら鹿道に沿って歩くしかない。
マウスon 専用線跡
林道とは別に進む専用線の跡は、ご覧の掘割を抜ける。
更に規模が拡大する日曹であったが、
生産・流通面の問題は完全解消されたわけではなかった。
専用線のアバットが残る。
労働攻勢の強さは、不安定な経営を招き、
低品位炭の生産と市場の狭隘性の中、採算の問題が露わとなった。
まだ目的地まで1q以上あるが、ご覧の廃道だ。
山元の炭価引下げが相次ぎ、高く見える労働能率も、
長時間労働の産物であり、赤字の累積が続くこととなる。
ひたすら登ると突然視界が開ける。
昭和30年(1955)に更生法の適用後、再建に向けての人員整理と、
この三坑に生産を集中する方針をとった。
沢には人工物が散在してきた。
昭和31年(1956)に選炭所の全焼という悲運が訪れたものの、関係機関や町理事者、
教職員組合などからの多額の支援により困苦に耐えることとなる。
確かな遺構、9s級のレールである。
その後着々と再建の道を歩み、昭和36年度(1961)には出炭17万t、
一人当たり70t/月と全国でも稀な高能率炭鉱と称される。
明らかな築堤の跡が山中に続く。
当時政府は石炭鉱業合理化事業団を設立し、
高効率炭鉱の育成と非能率炭鉱の整理指導に驀進することとなる。
ワイヤーロープや鋼材が散らばる三坑跡。
坑口を追って西へ向かう。
いわゆるスクラップ&ビルド政策、日曹にとっては躍進の一歩となる。
人工的な一角の廃道を再び進む。
ビルド鉱の指定を受けた本坑には、日本開発銀行や石炭合理化事業団から、
高額な合理化資金の借り入れが可能となった。
今度は埋もれた二条のレールである。
7億円の資金は第三坑深部開発工事の着手に充填され、
坑内運搬の機械化、選炭機の新設などエネルギー革命への対処と相成った。
廃道を登る中腹に排気風洞の廃祉が残る。
この時期のビルド鉱には、借入金の軽減や石炭鉱業再建安定補給金、
そして坑道掘進補助金など手厚い施策が行われた。
風洞内部も確認する。
風の通りは無く、
すぐに埋没しているようだ。
小径の風洞は意図的に埋められたようだ。
昭和46年(1971)の後半からは燃料事情が急激に変化し、
石炭需要の明らかな停滞が発生する。
風洞の脇の地下からはとめどなく鉱水が湧き出ている。
温泉では無いようだが、
地下に坑道があるのかもしれない。
風洞から暫く登坂し、第三坑に到達。
封鎖された大きな坑口と、
苔むした覆工が見える。
これが第三坑坑口である。
扁額の収まるべき窪みもある。
一部崩れた部分から覗いてみよう。
内部は坑口からすぐで厳重に封鎖してある。
昭和47年(1972)には積出港である稚内港や留萌港に、
貯炭が加速していく。
坑口から実際の斜面まで覆工が露出し、
その部分は苔で覆われている。
約60年以上の経過が感じられる。
深い森に残る苔むした廃祉。
日曹炭鉱が閉山したのは昭和47年10月。
開坑以来35年間の歴史に終止符を打つこととなった。
三坑坑口から更に奥には、別の坑口の廃墟がある。
ブロックが崩れつつある。
入気の風洞だろうか。
付近には他の遺構も散らばる。
炭鉱経営を支援した政策と、需要と生産の矛盾。
スクラップとビルド、どちらが光でどちらが蔭だったのだろう。
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