ヤマのサイレン響くよ今日も


明治期に乱獲により絶滅したとされていたタンチョウは、
大正時代にここ釧路湿原で十数羽の生息が発見、その後保護されている。
『丹』は赤の意、頭の『頂』が赤いから丹頂鶴である。 タンチョウ


サンタクンベ川にそって川上に向かう。
明治27年末、白糠釧路間の海岸 「段丘」表面は平坦、周囲が急斜面で限られた階段状の台地 の炭鉱鉱区許可申請数は40か所。
しかし実際に営業採炭を稼行したのはわずか5山であった。 サンタクンベ川


街のはずれから丘を登攀する。
ムスカルベツ川沿いには大正5年に16か所に及ぶ坑口が開坑され、
昭和3年には水洗機による選炭機が導入される。 森


付近にはズリの敷き詰められた輪車路のような場所もある。
選炭機の導入は春採湖への黒水の流入という、
新しい問題を発生させた。 輪車路


ズリ山を超える。
石炭の坑外搬出方法は当初馬車鉄道であったが、
大正14年(1935)からは臨海鉄道による埠頭までの機関車輸送となった。 ズリ山


選炭所の廃祉に到達だ。
双河辺(ふたこうべ)の市街地にほど近く、
家々から選炭所が見上げられる。 廃祉


昭和12年(1937)の日華事変勃発は周辺炭鉱に軍需景気をもたらす。
それまで9万t台の出炭も、事変後は20万t、翌年は30万tに達した。
出炭量を増やすために 「一方」表面は(=ひとかた)一回の入坑作業 は14時間労働に及んだ。 選炭所


選炭所は巨大でかなり上部まで続いている。
昭和18年には恒久的増産体制確立のため、
付近の弱小炭鉱との整理統合が施行された。 コンクリート


コンクリート製の遺構は既に自然と同化している。
昭和19年(1944)には国策による休山、
ほとんどの労働者は九州の炭鉱に移動した。 水槽



遺構の頂上付近にも藪に埋もれた廃墟が残る。
終戦により昭和21年に再開した本坑は、まず『復興祭』が行われ、
二年間水没していた主要斜坑の水抜きが最初の作業であった。 廃墟







戻る

坑口
坑口

トップページへ