別保炭山の表玄関


釧路湿原は約3万ヘクタール、釧路市街と内陸を遮断した形となっており、
約三千年前に海岸砂丘により、陸封じされたのが要因とされている。
観光名所とは言え、釧路の街が地理的に拡大する制約となったのは確かだ。 釧路湿原


今回は昆布森 深山側からアクセスする。
つまり上流からの探索だ。
付近には広大な昆布干し広場がある。 昆布森


クツタクンベ川南側丘陵上流域に向かって森を進む。
藪は無く、道は無いものの起伏の薄い森が続いている。
炭鉱跡までは道路から片道3q程度のアクセスが必要だ。 森


沢の上流域に到達するとそこには平場がある。
川沿いに長屋が点在していたとのことだ。
付近を探索してみる。 平場


クツタクンベ川沢沿いにはレールが埋没している。
6s級のか細いものだ。
河川敷に残る石炭運搬用の手押しトロッコのレールだ。 レール


紅葉の中、広大な平場がある。ここは千島長屋と呼ばれた区域だ。
坑内労働は先山/後山の二人制で、
入出坑時刻の明確な定めは無かったという。 平場


確証は無いが、五号坑坑口の成れの果てらしき跡だ。
坑口は一号から十二号まであったが、すべて水平坑道で浅部の採炭を行った。
機械化されておらず沿層に沿って手掘り、深部の能率は悪かった。 坑口


広大な平場にRC製の何かがある。
坑口の多さは深部まで採掘せず、
運搬面と断層の影響で次々開坑した副産物であろう。 コンクリート


コンクリート製の遺構は水槽のような施設跡だ。
かつては建物があったのかもしれない。
崩落した坑道は金銭面から修復することなく、当時は放棄されたらしい。 水槽



沢の護岸には腐食したレールが埋没している。
沢の交わる貯炭場までは軽便鉄道を敷設、
上流域は手押し軌道だったようだ。 レール


森を進む。ここは樺太長屋と呼ばれた地域だ。
採掘の最前線では、坑内水の流出が著しく、
予定ラインまで採掘を終了する坑道は少なかったらしい。 クツタクンベ川


付近には陶器やガラスの遺構が増加してきた。
明治40年には年間3万tの出炭、鉱夫160名に及んだ。
木造の長屋がここには林立していたのだ。 陶器



クツタクンベ川はやや太くなり、ようやく中流域に到達だ。
大正3年には釧路春採の安田炭鉱が休山し、
別保炭山の重要性が増し、第一次大戦まで着々と事業拡大が進む。 沢



鹿の頭蓋骨だ。
別保川との合流地まで軽便鉄道で運炭された原炭は、
釧路港まで舟で別保川を下った。 鹿


更に進んだ北側斜面にぽっかりと開く坑口だ。
これは立派な坑口を持つ、
少し時代が違う感じの坑道だ。 坑口





これは煉瓦製の斜坑だ。
大阪炭鉱時代は水平坑しかない。
するとこれは合併後の三井釧路炭鉱時代の遺構となる。 斜坑


好景気さなかの大正5年、三井鉱山による買収継承が行われ、
大阪炭鉱→釧路炭鉱として引き継がれた。
その時点での採掘坑口は12箇所の内の第七、第十の2か所だけであった。 十号坑口


継承後、他6か所の坑口を修理復旧させた上に、
第十坑を斜坑化し水準以下の深部採炭を進めた。
選炭は坑内でも行い、塊炭以外不要のものは坑内充填に使用した。 坑道


更に下流域には鋳鋼製のトロッコの車輪が朽ちている。
約100年近くは経過しているのかもしれない。
付近は硫黄臭がある。 プーリー


奥の沢には如何にも人口の木製の囲いがある。
ここは選炭場にも近い一角だが、
脇の地面からは硫黄臭の冷泉が沸いている。 浴場


木材は長方形に組まれ、浴場のようにも見える。
この釧路炭鉱の買収を皮切りに、
大戦後の不況期を切り抜けるべく、炭山の合併は進んでいくこととなる。 木材









戻る

坑口
坑口

トップページへ