ズリ山と神社
かつて一つの街『釧路町』(現釧路市)は人口集中の釧路川河口の市街地部分だけを釧路区とし、
郊外部分を釧路村として分村したものの、区は市に、村は町に発展し、
釧路市/釧路町と同名自治体が存在することとなった。
天寧管内には『テンネル第一チャシ跡』がある。
チャシとはアイヌの方々の砦に値する構造物とされ、
聖域や会談場と諸説がある。
炭鉱跡は天寧川に近く、
国道から少し入った市街地付近に存在した。
規模から考えると大きな遺構はなさそうだが。
付近には広大な荒地もある。
鉱床図にも大きな施設は無く、
『天寧炭山』の文字と小さな集落が描かれているだけだ。
広大な空き地が続く。
坑道の開墾と共に、運炭用として、
山元から富士製紙跡地までの軌条があっという。
当時の地図から残る神社に到達だ。
現在も整備はされており、
風化した雰囲気は無い。
かつての坑道があった方面だ。
現在は深い藪で何もない。
大正当時は斜坑の存在もあったらしい。
広大な荒地が残る。
明治期は水平坑道で、
鉱夫数は200人程度がいたと記録されている。
遠望できた付近の小さな丘は植生が疎らで、
これはズリ山のようだ。
一部木々が生えている。
中腹まで登ると、石炭屑が帯び重なる場所に来た。
明治期の旧鉱を大正期に開発した経緯もあり、
明治期は1,241t〜3,483t/年の採掘量があった。
大正期は505t〜362t/年の生産量と、
大幅に産額が減少している。
規模の差はあるもののやはり小炭鉱の域は出ない。
明治期が4年間、大正期が5年間の稼働。
やはり残存しているのは、
ズリ山だけで、大きな遺構の発見は徒労に終わった。
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