Li炭鉱跡  探検: 北の細道 Li炭鉱

Li炭鉱で謎の配管を追う




北海道石狩管内

   石狩平野は東西5〜20km、南北約100kmの大きな平野である。
現在ではその大半が田畑で一部市街地となっているが、
昭和16年(1941)の地勢図を確認すると、土地利用が進んでおらず、
大谷地原野、厚別原野などの文字も見える。

当別町には運河と『新田』の文字があり、土地改良と水田稲作が始まったことが読み取れる。
美唄以北は『農場』『兵村』が各地に点在し、すでに開拓が進んでいたことが想像される。

石狩平野の、 「沖積面」(ちゅうせきめん)河川により土砂が運ばれて堆積した平野 標高は美唄で15m、岩見沢10m、石狩大橋5mで下流域は5/10000と非常に傾斜が緩やかである。
そのため流れが滞留し蛇行する石狩川は、後背湿地に泥炭を堆積させてきた。
低平地で水分の供給が十分な湿地は、低温で酸素の供給も悪いため、
微生物による植物の分解が進まず、植物遺体が集積、スポンジのような泥炭へと変化する。
その後運河などで排水が進むと、泥炭層に空気が入り分解、やがて地盤が沈下する。


明治15年(1882)北海道に最初の鉄道が敷設されたのが、
幌内炭鉱から積出港小樽までであったことを考えると、
北海道開発における石炭の重要性が垣間見えてくる。

北海道の埋蔵炭量は100憶t、これは全国の48%を占める。(1956通産省石炭局調べ)
昭和37年(1962)の 「スクラップアンドビルド政策」中小炭鉱の閉山整理、大規模炭鉱の政府資金投入による合理化等政策 によって衰退した石炭産業であるが、
かつて道内には13もの炭田があり、その前後における地質調査も精度が高く重要な研究がなされてきた。

石炭は太古の陸上植物が原料で、それら植物が堆積されてきた地域は、
かつての生育地そのものであり、湖沼や潟湖に水の作用で堆積していったと考えられている。

植物遺体は水・土砂に覆われ空気の遮断された状態で、
嫌気性バクテリアによって分解還元作用が繰り返される。
この泥炭化作用の時期を経て、長年の炭化作用が継続し、
その中でも過去の圧縮条件が異なると、形成される石炭層も様々に変化し、
「瀝青炭」無煙炭に次いで炭素の含有が多い上質な石炭「亜炭」炭化度の低い低品位な石炭 など成分も 「粘結度」加熱した石炭がある温度から軟化溶融し固化する性質 も異なる石炭が出来上がる。


今回はある炭鉱跡の探索後に発見した坑道を探索する。
鉱区図にも載らない謎の坑道。

いずれは埋没しそうな、深い坑道に潜る。




骨・配管・一升瓶・・・


prayfor3104
( ̄u ̄;)坑道





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