ゴールドラッシュの来た道
個人所有の山だった大畑山展望台から一望する中頓別市街地。
赤道と北極の中間ライン「北緯45°線」が通る街だ。
北緯45°はアメリカポートランド市付近だが、平均気温は中頓別の方がはるかに低い。
付近には平成元年(1989)廃止の旧天北線の廃橋が残っている。
音威子府ー稚内間に存在した、
全長148.9qの最果てローカル線の痕跡だ。
中頓別鍾乳洞の北方、一己内(いっちゃんない)川を遡る。
林道はグラベルとなるが尾根沿いの、
大規模草地牧場を縫うように進む。
分岐から南へ進み、
標高200m付近が鉱山跡への導入口となる。
ここからは道なき沢沿いに進むこととなる。
これが進むべき方角の風景だ。
廃道さえもなく、ここからはGPSに沿ってマッピングを行う。
現在標高160m、目指すは右岸標高120m付近だ。
廃道をGPSに沿って進む。
大正期においても精錬所、分析所、坑夫住宅などが立ち並び、
中頓別市街は時ならぬ金鉱ブームに沸いた。
足元にはワイヤーロープと金属片である。
林業の痕跡かもしれないが、
もしかすると昭和期の産物かもしれない。
右岸、左岸と渡渉しながら下流へ向かう。
もちろん左右への注意は怠らない。
大正期は鉄道開通以前、資材の搬入はどうしたのだろう。
植生の疎らな平場があった。施設の跡かもしれない。
製錬に要する機器類は小樽から船舶で頓別港へ陸揚げし、
頓別川を川舟で運び、山元までは春の堅雪時に馬橇にて運び上げたそうだ。
所々平場があり、そこはかつての集落の痕跡かもしれない。
従業員約80名、200人程度がこの山中に暮らし、
中頓別市街から行商人が10名以上通い、床屋もあったという。
標高130m附近でようやく痕跡である。
飲料ビンが廃棄されている。
大正5年の閉山後、施設は保全されていたが大正11年の山火事で焼失。
そして陶器の皿が多数ある。
昭和8年の再鉱区買収は、日中戦争に伴う金需要の激増の時期と重なる。
鉱業所には新たに鉱員住宅、浴場、など建設され、水銀を含む辰砂から製錬を行った。
やはり明らかに植生の異なる平場が点在する。
二度目の鉱脈切れも突如発生し、
設備類はクッチャロ湖の砂鉄採取事業所に転用された。
「天然下種第一類施業地」とある。
恐らく鉱山跡地に植林を施したのだろう。
人の手の入った痕跡だ。
沢沿いに発見した煉瓦の遺構。
この山中深い場所に横たわる煉瓦は、
紛れもなく当時の廃祉だろう。
その脇には煉瓦が積まれた遺構だ。
これは明らかな人工物で、
もしかすると大正期のものかもしれない。
そのレンガの構造物はなんと坑口のポータルであった。
水没した穴はすぐに閉塞しているが、
紛れもなく坑口である。
山中深くの煉瓦積みの坑口。
大正5年、昭和14年と2度閉山した、
金鉱山の成れの果てである。
戻る