容量2,000tの精炭ポケット
昭和15年開校の太陽小学校 体育館。
昭和30年に現建屋となり、昭和35年の学級数23、児童数1,065名を記録する。
昭和37年に当時としては珍しい円形体育館が完成するが、昭和46年閉校、平成29年倒壊。(マウスon)
太陽小学校より北東へ700m。
第二選炭工場の精炭ポケット(ホッパー)を俯瞰する。
選炭の完成した最終製品である精炭を保管、積込を行う。
巨大なホッパー全景である。
仕上がった精炭を適時に積出ができるように貯蔵する。
第二選炭場の完成により、人員削減・時間外勤務の減少等その効果は23円/tの削減になったという。
ホッパー内部はかなりの広さがある。
上部が精炭ポケット、下部は積込施設だ。
貨車積込には選炭上下動ベルトローダーを設け、能率の上昇と粉化を防止した。
脇には保線台車かトロッコのような軌道が朽ちている。
ここに蒸気機関車が何連も入構していたとは、
信じがたい光景だ。
選炭場に残る廃祉群である。
精炭の濃縮、脱水と混炭、貯蔵とズリの廃棄等が、
ここで行われるわけである。
まずは奥の2階建ての廃墟に突入する。
藪を超えるといきなり2階部分に入構だ。
事務所と奥には巨大な機器が設置されていたようだ。
階段を下り、1階部分へ下る。
ここは秤量などの施設のようだ。
半ば水没した部分には計量器があったようだ。
階段の出口には鋼製の扉がある。
選炭成績や選炭統計の基礎数値として、
必要な原炭、精炭の重量を計器により自動測定していた。
上部の奥深い場所には木製の梁も残る施設がある。
ここは試料採取や工業分析の施設のようだ。
藪がなかなか激しい。
ここは木製の窓枠や壁の一部も残存している。
原炭・精炭の品位、
つまり灰分%や発熱量kcal/kgを工業分析で求めるのである。
木造の棚まで残る。
恐らくここに試料を陳列していたのであろう。
試料採取を抜き打ちで行い、品質の保持と確認をしていたようだ。
付帯設備の廃墟全景である。
精炭の重量÷原炭の重量×100が品位の歩留まりとなり、
これは成績を評価する数値の一つとなる。もちろん数値が大きい方がロスが少ない。
こちらも2階建てを超える大きな建築物だ。
これがメインのバウムジグ選炭の施設だ。
主選機100t用二基と再選炭機50t用一基が装備されていたようだ。
深い水槽が林立する。
石炭を混入させた水に空気で人工的に波を発生させて、
浮いた石炭と沈んだズリを分離させる装置だ。
バウムジグ水選機からの全景。
圧縮空気を使用していたので、コンプレッサー室がどこかに存在してはずだが、
それは確認できない。
この水槽も深さは4m以上ある。
処理能力原炭80t、ズリは自動制御装置による運転であった。
この施設の合理化により、18名の人員削減が可能となった。
およそ70回を超える冬を経験したRCは劣化が激しい。
雷管、鉄片の混入防止のためにマグネットキャッチャーという装置が導入され、
その回収率は100%だったという。
バウムジグ水選機から濃縮、脱水施設を眺める。
比重と精炭/ズリの分離比率を検証すれば、
比重による選炭の分離成績が評価できることとなる。
巨大な水槽の廃墟だ。
深さは6m以上ある。
恐らく脱水のための施設のようだ。
水槽の内部からの俯瞰。
天井には格子状の梁がある。
浮選機から搬出した精炭は濃縮⇒脱水の工程が必要だが、バウムジグ水選機では脱水のみでよい。
シックナー(=濃縮脱水機)も完全な形で残存する。
ここでは濃縮の必要性がないので、恐らくこのシックナーは、
除去したズリや廃滓と再利用する選炭用水に分離するために使用したのだろう。
シックナーの中にはキタキツネがいる。
ここで固形物を沈殿させ、それは底部から抜き出される。
清澄水は周囲からあふれ出たものを導水する。(マウスon)
昭和34年(1959)と言えば、他産業が神武景気を上回る岩戸景気を謳歌したにもかかわらず、
石炭業界は重油の圧迫で石炭の需要が減り、
単価が下落し、それに伴い中小炭鉱の閉山が相次いだ時期だ。
大手でも大幅な人員削減や合理化がすすめられ、
「炭鉱離職者臨時措置法」が公布、石炭鉱業審議会でも単価の引下げが答申されている。
築別炭鉱においては労使協力による合理化が進み、他社のような急激な体質改善は行われなかった。
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