坑道約120m
天塩川の治水、食糧危機に対する農業開発、電源開発の三点を目的に、
昭和45年、五年の歳月で完成した岩尾内ダムは、
使用セメント量7万4,000t、工事期間中は市街飲食店等大変な盛況ぶりだったと言う。
ペンケヌカナンプ川に沿って町道を遡る。
昭和32年(1957)に発見された三和鉱山は、
当初三名の個人の共同経営であったため、「三和」と名付けられた。
農村地帯の用水確保のための甲子貯水池である。
ここからは一気に山中となり、
鉱山跡に接近する。
民家が途切れてもなお牧草地が続く。
当初は露天掘りであったととのことなので、
もしかしたら露頭があるかもしれない。
旧地形図の語る鉱山跡にほど近くなった。
ここからは徒歩での探索だ。
残雪の山中を登攀する。
付近は砂防ダムの下流域で、
鉱山跡の痕跡は皆無だ。
この谷ではなさそうで、更に別の谷も探索する。
別の谷沿いを登る。
かつては坑道を水平に120m程掘り、更に山の中腹から垂直に数十m掘削し、
水平坑と直角に交わらせ、上から鉱石を落として坑道運搬したとの記録もある。
右の沢川の対岸に植生のない一角がある。
恐らく露天鉱床で、坑道も120mで鉱床が途切れたという。
川向うを確認してみよう。
右岸の土手には黒い露頭の部分がある。
経営は放漫で新鉱床の探鉱資金が準備できなかったようで、
昭和40年には共同経営を解散した。
ここが坑口の跡のようだが、現在は埋没し面影も見られない。
共同経営解散後は個人が「旭満俺」(あさひまんがん)と名称を変えて経営した。
しかしまとまった出鉱はできずに昭和42年(1967)休山、昭和47年廃坑となる。
痕跡はほぼ見られなかった。
当時の飯場には発電機や大きな風呂、売店もあったという。
古老の話ではかつてレイルが残存していたとのことだが、今となってはそれも発見には至らない。
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